意味論的社会学的ソキウス・ディレクティオーネ

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オネエ系タレントは何故テレビ業界で生存できたのか

※本記事は@oz4point5が授業用に執筆したレポートの修正版です(評価が終了したようなので記事として公開します)

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はじめに

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 今日では、テレビの持つ影響力は以前のそれに比べかなり限定されているとはいえ、その存在感は未だ大きい。また、テレビに関連した業務に従事する人々も数多くいる。その中でもテレビ画面に直接映される芸能人、あるいはタレントたちは日々めまぐるしく移り変わる流行の中、厳しい生存競争に晒されながらも、聴衆の感情を動かすべく苦心している。
 その中でも、ひときわ特徴的なグループが存在する。具体的な名前を挙げるならば、タレントイメージランキングで男性3位、女性2位を獲得したマツコ・デラックスを始め(ビデオリサーチ2017)、ヘアメイクアーティストであるIKKO、ドラァグクイーンミッツ・マングローブ、よりベテランの方で言えばシンガーソングライターの美輪明宏もそうだろうか、いわゆる「オネエ系タレント」と呼ばれるグループだ。彼女ら、あるいは彼ら(以下、簡単のために、彼女らと呼ぶ)が自らのことを、「オネエ系」と事称することは決して多いとはいえないが、テレビを始めとした多くのメディアにおいて、彼女らはそのグループの一員として、しばしば纏めて扱われる(週刊SPA!編集部2015など)。
 彼女らがメディアに多く露出している現状を取り上げ、「日本のメディアはLGBTに対しての偏見が少ない」とする意見も一定数あるようだ(福井2017)。だが、本当にそう言ってしまって良いのだろうか。確かに、オネエ系タレントの中にはいわゆるLGBTといわれるセクシャル・マイノリティも少なくない。だが、彼女らがテレビで取り上げられていることは、そのまま「LGBTに対する差別が少ない」ことを表している1と言えるのだろうか。
 結論から言えば、テレビに現れるオネエ系タレントたちの現状の扱われ方は、彼女らに対する偏見が少ないというよりはむしろ、偏見ゆえに今のようになっている、というほうが正しい。そして、それはテレビに代表されるメディアが、オネエ系タレントにどのような役割を求めているのか、という事から読み解く事ができる。本文では、オネエ系タレントという言葉の定義の曖昧さから始め、テレビ業界が求めているオネエ系タレント像を考察し、その性質を明らかにしたい。

1. オネエ系タレントとは誰か

1-1. メディアに映るLGBT

 テレビを始めとして今日のメディアに映るLGBTの扱いに関しては、確かに向上していると言える部分はある。例えば、2016年にヒットしたドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」では主人公の同僚がゲイとして、面白おかしくではなく、適切な形で登場していたし、

KABA.ちゃんマツコ・デラックスさんをはじめ、今やLGBTの人たちをテレビで見ない日はない。また、かつてのような「ホモセクシュアル=気持ち悪い」といった明らかに差別的な扱いは影を潜めた。日本民間放送連盟(民放連)の放送基準を見ると、「性的少数者を取り上げる場合は、その人権に十分配慮する」と記されており、解説書には「『ホモの見分け方』コーナー」や「『こわくて行けない場所』というタイトルで、隠しカメラで撮影したホモセクシュアルのキスシーンなどを流す」といった内容が問題視されたと紹介されている。

という記事もある(福井2017)。だが一方で、同記事内では明治大非常勤講師(性社会文化史)の三橋順子が、

LGBTと言っても、バラエティーに登場するのは過剰に女っぽいゲイ(おネエ)ばかり。実際にはマッチョな男性的なゲイのほうが多いのに、女性っぽいゲイしか取り上げられないことが多いんです」

と述べている。LGBT全体としてはともかく、オネエ系タレントが過去に比べてテレビに受け入れられつつあるのは事実なようだ。番組を制作する側のスタンスはどうだろうか。日本企業のうち、LGBTに対する基本方針(権利の尊重や差別の禁止などを規定するもの)、いわゆるLGBTポリシーを持つ企業は22.4%だという(東洋経済新報社2016)。テレビ局などを運営する企業はそのほとんがLGBTポリシーを持っており、確かに過去のようにLGBTに対する差別的な番組をそのまま放映するということは少なくなってきているようだ。
 だが、メディアへの露出が多いことと、差別意識がないことは決して等価ではない。欧米におけるミンストレル・ショー(1840年代以降にアメリカで流行した、黒人の特徴を白人演芸者が模倣するショー)の問題が代表的だが、観衆がタレントに感じる魅力というのが差別的価値に基づいている――あるいはそれが非差別的な興味と混同されている――可能性があるからだ。その評価は慎重に行う必要があるだろう。

1-2. オネエ系タレントとは

 さて、ここまで特に断りなく「オネエ系タレント」という言葉を用いてきた。これは一体、誰のことを指すのだろうか。先に一部の具体名を列挙したが、このように複数人の集団の名前を用いる場合、その基準を示すのが通常だろう。
だがしかし、実のところ、オネエ系タレントには確固たる基準があるわけではない。後に詳しく見ていくが、オネエ系タレントと称される人物の中には、自分のことをそう呼称されるのを嫌っている人もいるし、いわゆる「オネエ口調」を用いない人もいるなど、多種多様である。これは、タレントたち本人ではなく、番組製作側、あるいは視聴者側が彼女らを一方的にカテゴライズした結果に他ならず、またそれこそがオネエ系タレントが持っている問題の核心といえる。
 しかしながら、分析を行う上において、対象となる人物が定まっていないのは不便である。そこで、多様な媒体やSNSで、「オネエ系タレント」として扱われた記事が存在する人物を集め、その中でタレント名鑑(VIPタイムズ社2017)に記載のある者を対象とすることにした。具体的には以下の通りである。これは、我々の直感的なオネエ系タレントのイメージとは少し相違があるかもしれない。だが、それは出来る限り多様な人物を対象としつつ、ある程度の客観性を持たせるための措置としてご容赦願いたい。本文は、彼女らこそが「オネエ系タレント」だと規定するつもりもないし、また各人がそう自称しているということも保証しない。

IVAN,KABA.ちゃん,おすぎ,カルーセル麻紀,クリス松村,たけうち亜美,つげりょうた,はるな愛,ピーコ,マツコ・デラックス,ミッツ・マングローブ,りゅうちぇる,楽しんご,佐藤かよ,三ツ矢雄二,山咲トオル,植松晃士,真島茂樹,如月音流,尾木直樹,美輪明宏(五十音順,表記はタレント名鑑に基づく)

 ただ、彼女らが何らかの媒体で「オネエ系タレント」と呼ばれたことがあり、今回の分析の対象とすることのみを意味する。また、「オネエ系タレント」という用語にも多様な亜種が存在する(「おネエキャラ」あるいは単に「オネエ」など)が、彼女らがタレント名鑑に記載があり、また「系」というような漠然なイメージで語られることが多い、ということを踏まえて「オネエ系タレント」に以下では語を改めて統一する。

2. キャラとしてのオネエ

フィギュアのイラスト

2-1. オネエ系タレントの条件

 オネエ系タレントの定義が記された辞書などは存在しないが、しかしながらその語が存在する以上、曖昧であるにせよ何らかの条件がそこには存在するはずだ。そして、それが集団を呼称するときの名前である限り、ある人物がオネエ系タレントになったり、あるいはそうでなくなったりすることも可能なはずである。

 振付師であるKABA.ちゃんは2014年に性別適合手術の1つである睾丸摘出手術をタイで受け、そのことをテレビで告白した(リテラ2014)。これは現在の日本において戸籍上の性別変更を行うために、性器を「希望する性別の性器に似た外観にする」必要がある(性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律第3条)ためでもあったようで、2016年には実際に戸籍を女性に変更している(ORICON2016)。その結果として、KABA.ちゃんは次のように語っている(福井2017)。

ただ、自分が戸籍も女性になった時にあるスタッフから「扱いづらくなった」と言われた時にはがっかりしました。だったら、女性になったと言わないほうがよかったわけ?オネエなら面白おかしく扱えても女性になったら扱いづらくなる、というのも変な話ですよね。まだメディアの世界は柔軟じゃないと感じさせられました。

 どうやら、彼女は、戸籍が女性になったと発表したときから「オネエ」とは扱われなくなり、同時に扱いづらくなった、と感じているらしい。どうも番組制作側からすればオネエ系タレントには、何らかの求められる条件あるいは像が存在し、それゆえにオネエ系タレントとして番組に出演させたいようである。とすれば、その「像」とは一体どういうものなのだろう。

2-2. オネエキャラ

 この番組制作側がオネエ系タレントにもとめている「像」のことを、ここでは「キャラ」と位置づけ、そしてそれを「オネエキャラ」と呼びたい。キャラとは「特徴」「性質」といった言葉を意味するギリシャ語のkharakterあるいは、そこから誕生した英単語characterから派生した単語(Oxford2018)であり、人口に広く膾炙しているといえる概念である。

 だがしかし、その言葉は非常に日常的であるがゆえ、多義的であり、もともとの意味に様々な文脈が付加されて現在に至っている(斎藤2011:10)。「キャラ」という言葉自体の定義も難しいが、ここでは以下のような理由からその語を用いる。

  • オネエキャラとはテレビで「演じられる」ものである
  • オネエキャラには確固たる定義がない
  • オネエキャラとは人々のイメージの集合としてそう呼ばれているにすぎない
  • オネエキャラは、その名前以外の属性の流動性が非常に高い
  • オネエキャラはしばしば当事者の自己同一性を形成する

 

 これは斎藤環新城カズマらによってしばしば語られる「キャラ」の定義と一致するものである。このことから、オネエ系タレントは「オネエキャラ」の性質をもち、「キャラ」としてしばしば振る舞うと考えられる。

2-3. 「キャラ立ち」するオネエ

 キャラは「立つ」ものである。そして、テレビにおいて人気を得るために、それは非常に重要なものだ。「キャラが立つ」というのは本来はマンガの手法として用いられていた言葉で、登場人物の個性を読者にとって印象的で際立ったものにする、という意味であった(斎藤2011:12)。
 だが、その言葉は1980年代ごろからテレビ業界――特にお笑いの分野で――使用されるようになっていく(新城2006)。「キャラ」とは演技するものであり、お笑い芸人は「ボケキャラ」と「ツッコミキャラ」を与えられ、自らの役割を明確に示すようになったのだ。
 それ以降、「キャラが立つ」ことはテレビ業界で人気を得るうえでほぼ必須の条件となっていき、番組制作側も次の「キャラが立つ」タレントを発掘するのに躍起になっていく。先輩の芸人や構成作家、テレビ局の社員はしばしば新人に「キャラを作れ。それが売れる早道だ」とアドバイスするという(瀬沼2007)。
 オネエ系タレントに要請されるオネエキャラも、その一環と考えるのが自然だろう。視聴者に提供されるわかりやすい個性――それも曖昧で大雑把な――を提供するために番組制作者はオネエ系タレントにオネエキャラであることを半ば強制し、タレント側もその期待に答えていく。
 一部のオネエ系タレントは派手な女装を行っており(IKKOや美輪明宏などが女性のタレントと比べても色の濃いアイシャドーや口紅をつけていることに代表される)、それはひと目見ただけで判別できる。他にも、先述の通り、人気の高いマツコ・デラックスは、非常に大きな体格と黒いシルクの特徴的な衣装が印象に残る。
 テレビは同じ映像を何度も短い時間で繰り返して報道することがあるし、ある番組に出演していても実際画面に映る時間は非常に短い、ということもある。そんななかで強烈な存在感を放つことができるオネエキャラ――もちろんそれが動きや口調だったり、他の出演者からの扱われ方に起因することもあり、それもまた「オネエキャラ」といえる――はテレビ番組にとってとても「美味しい」存在なのだろう。

2-4. 無視されるオネエたちの差異

 先程も述べた通り、キャラとして扱われることは、厳密に一人ひとりの個性を参照することなく、その大雑把な属性でのみ評価を受けることに繋がる。オネエ系タレントもその傾向が顕著で、「オネエキャラ」であることは把握されていても、その本人がどのような属性、たとえば性自認セクシャリティかというのはしばしば混同される。マツコ・デラックスは番組中に自分のことを「子持ちの女性」だと勘違いされたことに際し「何もかも間違っている」と言及したこともある(トピックニュース2014)。
 そもそも、オネエ系タレントは統一の性自認セクシャリティを持っている人々ではないことを再確認したい。「オネエ」という単語からしばしば彼女らは「男性」であり、「女装」をしていて、そして「男性愛者」である、という誤ったイメージを持たれるが、全くそのようなことはないのだ。(出典:ハートネットTV2013,J-CASTニュース2007,しらべぇ2016,salitote2012,週刊SPA!編集部2015,福井2017,ナリナリドットコム2017,AbemaTIMES2017,テレビドガッチ2016,まいじつ2017,羽田2015,女性自身2016)

 

性同一性障害ではない】マツコ・デラックス,美輪明宏

【男性に性的な興味をもつことがある】KABA.ちゃん,カルーセル麻紀,つげりょうた,マツコ・デラックス,ミッツ・マングローブ,三ツ矢雄二,植松晃士,美輪明宏

【女性に性的な興味をもつことがある】りゅうちぇる,尾木直樹

【両性に性的な興味をもつことがある】真島茂樹

【男性から女性への性別適合手術を受けた】KABA.ちゃん,カルーセル麻紀,たけうち亜美,はるな愛


 上図からも分かる通り、オネエ系タレント自身が公表している中でもセクシャリティに多くの差異があることがわかる。性同一障害であったりなかったり、自身の性認識や、性的な興味に至るまで各人で様々に違う。彼女たちをひとまとめに「オネエ系タレント」とすることは実に曖昧な区分であることが分かるだろう。断っておきたいのは、今現在も彼女らがこのセクシャリティであるかどうかは、分からないということだ。
 また、セクシャリティというのは厳密に言えば、一人ひとり違うし、普段はそれを公にするものではない。本来はその多様性を認識し受け入れるのが「セクシャリティによる差別意識をなくす」ということである。しかしながら、このような多様性を持ちながらも「オネエ系タレント」としてグルーピングされ、個々の違いに着目されることがない彼女ら(上記の出典記事においてもその多くが「今明かされる」や「今になって言える」という語り口が多く日常的にその部分に注目されていないことが伺える)が、テレビ業界において差別なく受け入れられているかというと、決してそうではないだろう。
 多様性を否定して非常に曖昧な区分で「キャラ」としてオネエ系タレントを扱う現状は、彼女らの個々を見ず全体として扱っているということであり、それは本来の「差別のない意識」とは真逆に位置づけられるものだろう。

2-5. 蓄積される「オネエ」の記号と文脈

 ここで「オネエ」という単語の語源にも少し触れておきたい。その初出ははっきりとしないところが多いが、そもそもに「オネエ言葉」という単語の存在があったことはどうやら確かなようだ。ゲイカルチャーの一部で女性的な仕草を表す記号として「だわ」「わよ」などの言葉を使われていたのをさして「オネエ言葉」という言葉は広がっていった(小林2007)。
 この「オネエ言葉」を使用する人物のことだけを「オネエ」と称してきたか、といわれるとそうとも言い切れない。新宿2丁目を始めとするゲイカルチャーの中では「女装をしないゲイの中で女性的なゲイ」を指してのみオネエと呼んでいたし(三橋2009)、先に挙げたオネエ系タレントの中にはその話し方に特徴があると言えない人物も多い。
 しかし、このように曖昧なイメージながらも世間は「そのような人々」がいることを認識しており、それが現在の「オネエ系タレント」に繋がっていると考えるのが自然だろう。つまり「オネエ系タレント」のとりわけ「オネエキャラ」というのは、オネエ言葉や女装文化などに関わる人々に対して日本人が漠然として持っていた共通の文脈の中から、テレビ映えするような要素を取り出し継承させ、その定義を曖昧にさせたまま、具体的な人物をそこにカテゴライズすることで発展した概念、であるといえる。
 これが、オネエ系タレントとそうでないLGBTのタレントとの大きな差の一因といえるだろう。オネエ系タレント以外のLGBTはテレビ業界で活躍しにくいし、したとしてもそのセクシャリティに基づくことはほぼない(福井2016)と言われているが、それはオネエ系タレント以外のLGBTに対して日本人が特定の共通したイメージを持っていなかったからである。それゆえ、オネエ系タレント以外のLGBTのタレントが活躍したとしても、それを表す「キャラ」は生成されなかったし、それが再帰的に強化されていくこともなかったのだ。

3. 異人としてのオネエ

握手をしているビジネスマンのイラスト「日本人と外国人」

3-1. 批評するオネエ

 前章では、オネエ系タレントがどのような人物であったかに注目していたが、今度はオネエ系タレントが何をしているかについて注目したい。ここにもテレビ業界はオネエ系タレントにある一定の役割を求めていることがわかる。
 オネエ系タレントたちが登場する番組は数多く作られている。今であれば最も著名なのは、マツコ・デラックスが司会を務めるTBS系トークバラエティ番組『マツコの知らない世界』であろうか。これは、様々なジャンルのゲストが週替りで登場し、彼らが紹介するものをマツコ・デラックスが実際に体験、そしてそれに感想を述べるという番組だ。マツコ・デラックスの歯に衣着せぬ物言いが受け、人気を博している。

 複数のオネエ系タレントが登場し、そのことを売りにした番組もあった。2006年から2009年に渡り放映された日本テレビ系バラエティ番組『超未来型カリスマSHOWおネエ★MANS!』(通称、おネエマンズ)だ。先程の表で名前を上げた中では、植松晃士や真島茂樹、IKKO、如月音流などがパネリストとして参加し、それぞれファッション、ショービズ、メイク、ITの「カリスマ」として登場、様々なお題についてオネエ系タレントたちが評価をするという番組で、2008年度の流行語大賞に「オネエマン(ズ)」がノミネートされる(ユーキャン2008)ほど注目を集めた。
 その他にもオネエ系タレントが出演する番組は多数あるが、そのほとんどでオネエ系タレントたちは共通した役割を担っている。「批評する」役割だ。時にはファッション、時には恋愛、あるいはビジネスに至るまでオネエ系タレントは「遠慮のない」意見を述べる人物として、しばしばスタジオに登場する。なぜ、彼女たちはそのような批評者としての期待を集めるのだろう、逆になぜ視聴者や番組制作者は彼女たちの意見に「らしさ」を感じ高く評価するのだろうか。

3-2. オネエたちに期待される客観性

 ニューハーフという言葉がある。こちらもなかなか定義が難しい言葉だが、初出の説としてあるのは、サザンオールスターズ桑田佳祐が「男と女のハーフだ」と大阪のショーパブのママに言った、という話だ(渡辺2010)。他にもオカマバーという単語がある通り、女装した(生物学的に男性の/あるいは男性として産まれた)ママが、カウンターに立ちバーで悩み事や相談を聞く、という構図は非常にありふれたものだ。何らかの「批評」を行い、それをある程度の信憑性をもって聞き手が受け取る、という意味で彼女らはオネエ系タレントとよく似ている。
 なぜ我々が彼女らの意見をそのように扱うのかについての定説は今のところないが、大きく分けて二つの理由が考えられる。
まず一つは、「オネエ系タレントは人生経験が豊富であるから、それに基づく意見も一定の信憑性を持つ」というものだ。オネエ系タレントは、セクシャルマイノリティが多いことは間違いないし、いじめられたり、一人で深く悩んだ経験を持つタレントも多い(女性自身2015)。そのことから様々な困難に向き合い乗り越えてきた事を考えると、それらに対する対処法、つまり「困難の乗り越え方」に関して一定の知識なり意見があると考えるのは確かに妥当であろう。
 だが、これだけではオネエ系タレントに求められる批評の役割の原因を十分に説明することはできない。なぜなら、先程の番組の例からも分かる通り、彼女らは「IT」「ビジネス」など多岐に渡るものについて批評し感想を言う、時にはニュース番組に出演して社会問題にも言及する(その時は「インテリなオネエ」や「オネエ映画評論家」などの称号をしばしば与えられる)。「人生経験」や「ファッション」ならば、その経験が豊富だからというのは頷けるが、これらに関してさえ彼女らの意見にある程度の信憑性が感じられるのを説明するのには先の理由だけでは足りないだろう。
 そこでそれらを説明できる二つ目の理由を考えよう。それは「オネエ系タレントは異人であるから」というものだ。

3-3. 異人としてのオネエ

 わたしたちは世界のなかで事物を認識したり区別したりするとき「わたしたち」と「かれら」という集団を考える。前者の、自分が所属して理解していると考えられる集団を内集団と呼ぶ(Bauman and May2001:72-73)。無論、その境界線は非常に曖昧で、個々人の思想や先入観によって大きく異なる。そして、それはある一つの特徴を持つ。
 ある人物が同じ集団に所属する人物やあるいはその性質、文化に対して評価を行うとき、内集団バイアス、いわゆる「ひいき」が発生する(池田・唐沢・工藤・村本編2010)。自分と同じ集団に属する対象を高く評価することは、無駄な軋轢をうまないし、自己肯定感に繋がるし、その集団の境界線をさらに強固なものにできるからだ。また留意しておかなければならないのは、その評価が高い原因は無論「同じ集団に属しているから」ではなく、「その対象が優れているから」と考えられがちで、様々なステレオタイプや差別の一因にもなっているということだ。
 この事は、明示される前からも我々はある程度感じていることだろう。そして、これに対する反動から、人々はできるだけ公平に物事を判断する場合、「客観的」に物事を見るということを重要視する。そして、それは同じ集団に属する人間が行うよりも、自分たちとは異質な外の人間――ここではオネエ系タレント――が行ったほうが、もっともらしく感じられるのだ。このように求められているオネエ系タレントの役割を「異人としてのオネエ」と呼ぶことにしよう。

3-4. 我々と違うからこそ評価されるオネエ

 このように自分たちとは違う集団に所属する人物がテレビに登場して意見をいう、という構図は外国人コメンテーターが朝のニュース番組などでしばしば活躍していることからも分かる通り、テレビ業界では「ありがち」な手法のようだ。誤解を恐れずに言うなら、オネエ系タレントがテレビで何をしてほしいから呼ばれているか、というとそれは外国人コメンテーターと同じ理由によるものなのだ。すなわち「外からの公平な意見がほしいため」だ。
 しかし、これは次のような重要な事実を意味する。つまり、テレビ業界、そしてそれが想定している視聴者は、オネエ系タレントを異人として位置づけている、ということだ。オネエ系タレントは、我々とは違う存在であるからこそ、公平な意見が期待されている。それに彼女らは外国人コメンテーターと違ってわざわざ日本に来て貰う必要もなければ、オネエキャラとして一定の人気あるいは知名度が保証されているのだ。
 これは言うまでもなく、「LGBTの理解」などと言ったものとは正反対だと言えるだろう。テレビにオネエ系タレントたちが呼ばれて意見をいうのは、我々が彼女らを仲間だと受け入れているわけでは決してなく、むしろその逆の機序によるものなのだ。無論、これには「尊敬しているからこそ、その意見を妥当だと考えている」という反論がありえる。しかし、先に挙げたように、オネエ系タレントはその一人ひとりのセクシャリティや苦労といったものを参照されることはほとんどないが、それにも関わらず全員が尊敬され意見を尊重される、というのは無理があるように思える。また、「IT」や「ビジネス」「社会問題」の分野で彼女らが必ずしも尊敬されるという必然性もないだろう。
 よって、メディアでの露出が増えた結果、人気を得て尊敬されることはあっても、その発端には「我々と違う」という意識があったから、と考えるのが妥当ではないか。

4. 終わりに

 以上が、オネエ系タレントのその性質と期待から導かれる考察である。彼女らはテレビ業界に「オネエキャラ」であることと「異人」であることを期待されている。それは彼女らに独特な地位と人気を与えているが、見てきたように、必ずしも「テレビが多様性を受け入れているから」とは考えられない。
 オネエ系タレント以外のLGBTがテレビ業界での活躍がしづらいのも、性別適合手術をしたKABA.ちゃんが「扱われづらい」というのも「オネエキャラ」という文脈を利用できないからであるし、彼女らの意見がしばしば「歯に衣着せぬ」と形容されるのはその異人性に起因する。
 テレビ業界をはじめとしたマスメディアにおける、LGBTに対する差別意識というのは確かに少なくなりつつはあるが、「オネエ系タレントが出ている」のを理由にそれを主張するのは不適当であるし、逆説的にそれはテレビ業界にはまだまだ払拭されるべき差別意識が残存していることも示している。
 そもそも、マスメディアは多数の人に短時間で多量の情報を提供する都合上、事象一つ一つを丁寧に検証せず、何らかのパターンに当てはめて考えがちである。その方が、情報の受信者の理解が容易である、というのは確かであるが、それは同時に多くの情報や多様性を削ぎ落としている。真にあるべきメディアとはそのような形ではなく、あるものをあるままに正確に伝え、差別に対してNOを突きつけられるようなものであるべきではないだろうか。最後に断っておきたいが、多くのオネエ系タレントの人々が活躍できているのは、本文であげた理由によるものだけではなく、むしろ本人たちの努力によるものが大きいし、彼女ら、あるいは彼ら一人ひとりの魅力や意見というものも多様で素晴らしいものが多い。もちろんその中には、LGBTに対する差別意識と戦っている、あるいは配慮している方々もたくさんいる。本文で述べたかったのは、そんなオネエ系タレントたちがテレビで十把一絡げにしかほとんど扱われないのは何故なのか、ということで、決して彼女ら、あるいは彼ら自身の良さを否定したいわけではない。
 また、オネエ系タレント、あるいはメディアにおけるLGBTの扱いに関してはまだまだ考察の余地があるように思う。その変遷について調べることで、また違った事実を明らかにすることができるだろうし、これからどうすることで現代社会を変容させていけるか、というのも非常に重要な課題であるが、それらについては今後の研究に期待したい。

[文献]