意味論的社会学的ソキウス・ディレクティオーネ

L ( 転轍 \lor \lnot 転轍 ) \supset M( 良き倫理 )

「好き」の社会学

1. はじめに

若さ 若さってなんだ ふりむかないことさ

愛ってなんだ ためらわないことさ

(『宇宙刑事ギャバン串田アキラ) 

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  「わたし、『好き』ってどういうことか分からないんだよね」という言葉を聞いたことある諸氏はいるだろうか、無論、沢山いるに違いない。民明リサーチ社が行った調査によると、女性の実に7割が「好きってなんだろう」と思い、そしてうち4割が「好きってわからないんだよね」と発言し、うち2割が「付き合ってみたら『好き』がなにかわかると思って付き合ってみたけど、やっぱりわからないから別れよ」とパートナーを振ったことがあるという。

 女性に限ったのは、何も女性を批判しようという意図があったわけではなく、男性はアセクシャルを除いてそのほとんどが「勃起したら多分『好き』ってことなんだろう」なりそれに類似した落とし所を見つけられるが、女性はそうではない、という生物学的な話によるものだ。

 しかし、これは由々しき事態である。科学主義全盛の世の中において、こうも初歩的だろう概念が理解されないまま、そして人々が問うているのに明確な答えがアカデミアから出ないのは何故か。我々の税金をどこに投入しているのか。責任者をよぼうにも出てきそうにないので、代わりに私が世の子女の質問に答えてあげることにしよう。

「わたし、『好き』ってどういうことか分からないんだよね」

「じゃあ、この記事を見ればいいよ」

上記が理想形である。というわけで目次を提示しよう。

2.「好き」とは何か

 初めに断っておかなければならないのは、この記事では「好き」だの「愛」だの「恋」だのをひっくるめて「好き」と呼ぶ点である。この辺りは三省堂あたりの辞書でも引けば微妙な機微の違いが出るのだろうが、そもそも一つも意味が明確に理解されていないのに、そこを語るのは後でいいだろう。

 実際の所、この感情は何か、というものに明確に学術的な名前がついているかというと、2018年現在そうではないのだ。実際に運用する場合はTPOに合わせて名付ければよいだろうが、ここではその「よく分からない甘酸っぱい気持ち」をまとめて「好き like」としておこう。

2-1. 社会心理学的「好き」

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 多くの人間がアカデミックに人の心について知ろうと思う時に初めに門を叩くのは心理学だ。心の理(ことわり)の学問というだけあって、なかなか心に詳しそうなイメージがする。心理学自体については個人的には全く好きではないが、あまり言うと怒られそうなので、それ自体には触れず、心理学で扱われている「好き」について見ていこう。

 心理学の中で有名な恋愛の研究といえば、Bowlbyの愛着スタイル attachment styleと、Sternbergの愛の三角形モデル triangular theory of loveであろうか(池田, 唐沢, 工藤, 村本 2010 : 174 - 8)。前者は、どちらかというと恋愛中あるいはそれが崩れている時にどう行動するか、というのを類型したもので、「好き」が何かという話とは若干ずれているので、今回は名前だけにしておこう。さて、そして後者の名前からして胡散臭いこの理論は、なんと「愛」の構成要素を三種類に分けてしまったという。それは以下の通り。

  • 親密性 intimacy
  • 熱情 passion
  • コミットメント commitment

そして、この三種類が組み合わさって色んな愛が産まれるんだけれど、全てがうまくバランスが取れているとそれは完結した愛 consummate loveになる――(Sternberg 1997)。そんなこと有ります? 冷静に考えて、この3つが独立変数だと、思います? 僕は思いません。

 まあ、それはともかく折角言っているので、要素の意味ぐらいは説明しましょう。Wikipediaの日本語にも項目があるのですが、クソ記事なのでせめて英語版を見ましょうね(2018年2月現在)

Passion: Passion can be associated with either physical arousal or emotional stimulation. Passion is defined in three ways: (1) A strong feeling of enthusiasm or excitement for something or about doing something. (2) A strong feeling ( such as anger ) that causes people to act in a dangerous way. (3) strong sexual or romantic feeling for someone.

熱情 passionは、性的興奮や情動的刺激と結びつける事ができる。熱情は以下の3つのように定義できる。

  1. 何か、あるいは何かを行うことに対する熱狂や興奮といった強い感情。
  2. 危険な行動を人々に起こさせる(例えば怒りと言った)強い感情
  3. 誰かに対する強い性的あるいはロマンチックな感情 

 Intimacy: Intimacy is described as the feelings of closeness and attachment to one another. This tends to strengthen the tight bond that is shared between those two individuals. Additionally, having a sense of intimacy helps create the feeling to being at ease with one another, in the sense that the two parties are mutual in their feelings.

親密性 intimacyは、対象との(心理的な)距離の近さや、愛着の感情として説明できる。しばしば二人の当事者の間に共有される「固い絆」を強化する傾向がある。加えて、親密性を抱くことは、もう一人の当事者が二人の間で感情を同じくするのを簡単にする助けにもなりうる。

Commitment: Unlike the other two blocks, commitment involves a conscious decision to stick with one another. The decision to remain committed is mainly determined by the level of satisfaction that a partner derives from the relationship. There are three ways to define commitment: (1) A promise to do or give something. (2) A promise to be loyal to someone or something. (3) the attitude of someone who works very hard to do or support something.

コミットメント Commitmentは、他の二つの要素と違い、もう一人の当事者にも同じような意識的決定の必要を伴う。コミットメントで有り続けようという決定は主に二人の関係性からパートナーが感じられる満足度によって左右される。コミットメントには以下の3つの定義がある。

  1. 何かをしたり何かをあげるという約束
  2. 誰かや何かに対して忠実であろいうという約束
  3. 何かをしたり支えたりするために勤勉であるという態度

というように、「熱情・親密性・コミットメント」「熱情・親密性・コミットメント」って感じで、これらが愛を構成し、そしてバランスよく保たれれば、良い愛であるそうです。

 はっきりと否定できるほど間違ってるとも言えないけど、なんとなくそうっぽい、というだけであまりしっくりこない、というか。「偉い学者先生がいうなら、まあそうなのかもしれなけど、証明とかできませんよねコレ」みたいな。シュレーディンガー方程式か、お前は。

 この記事は「好き」って何か、を自分の中にしっくりする定義を見つけようという考えのもとに書かれているので、もう少し、他の学問分野に行って定義を探してくることにしましょう。というわけで、編集部一行はインターネッツの女性向けバイラルメディアの記事に飛んだ。

2-2. 通俗心理学的「好き」

 心理学者には悩みのタネがあります。コンビニ本とか変なニュースサイトとか、テレビで紹介される「心理学」と銘打っておいて何の根拠も論文も持たない主張たち。例えば、「血液型で心理がわかる」とか「胎児だったころの記憶が」とか、そういうもの。これらを纏めて通俗心理学 popular psychologyと呼び、心理学者たちは普段は無視しているのですが、何かの飲み会で「心理学ってこういうのでしょ」とか言ってdaigoとか出されるたびに辟易しているのです。

 しかしながら、もしかすると、こういうとこにこそ真理は落ちているのかもしれない。アカデミズムは嘘と権力に塗れている、真の学問は在野にこそあるのだ!

 これが心理カウンセラー(?)の教える「本当に好きな人を見極める方法」の一覧だ。

 

  1. ずっと一緒にいたいと思えるかどうか
  2. その人がいなくなったときどう感じるか
  3. 一緒にいて居心地がいいかどうか
  4. 一緒にいて楽しいかどうか
  5. 相手の嫌な面を見ても嫌いになったりしないかどうか
  6. 会いたいと思うかどうか
  7. 相手と一旦距離を置く

 

(小日向 2017)

  このお姉さんは心理カウンセラーらしいし、それぞれの項目の下に実在するかわからない人物の台詞もついていたから、多分正しいぞ。ちなみに、心理カウンセラーっていうのは「法律家」ぐらいフワッとした括りで、特にそういう資格があったりするわけじゃないけど、それをわざわざ名乗るのはお兄さんにはよく分からないぞ。

 この7つ、よくよくみると全部「一緒にいたいと思えるかどうか」にまとめられる気がする。つまり、「一緒にいたい」=「好き」なのだろうか。これもさっきと同じく否定できないけれども。まあ、これぐらいラフな考えの方が悩みも少ないし実用的なのかもしれない。自分の感情を正確に把握するのは難しいので「一緒にいたいなあ」と思ったら「あっ、この人の好きなんだ」と思うぐらいのほうが、悩まずにすむ、というのは確かだろう。

2-3. 行動科学から事実論的アプローチへ

 と、「好き」とは何かを心理学的に見てきたが、ここで僕は思いました。

「人の感情ってクオリアと同じでそれ自体を測定することはできないし定義できないんじゃないの?」

と。「赤とは何か」を定義することはできない(できても赤い物の列挙になる)ように、何らかの心理状態自体を定義することはできないのです。

 しかしながら、我々は「好き」の定義を知りたい。となればどうするか、方法は一つに思えます。それは「好きになったらどうなるのか」という類型あるいはメカニズムを知ること。これならば先程よりは幾分科学的でしょう。

 余談ですが、このように一人ひとりの考えよりも、確固たる事実に基づいた研究のほうが有意味なのではないか、というパラダイムシフトは政治学でも最近(1950年代~)おきました。行動科学政治学から制度論的アプローチへ、と言うやつです。

 この記事でも同じ戦略を取りましょう、「好き」とは何か、「好き」になったらどうなるのか、それを知るため、一行は一路、神経心理学に飛んだ。

2-4. 神経心理学的「好き」

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 神経心理学とは、聞きなれない人には聞き慣れない単語かと思います。「脳科学」のほうが通りがいいかもしれません。神経心理学 neuropsychologyとは、その名の通り、脳の神経の状態と人間の心理の状態を調べるのがメインの学問です。「おお、それなら感情に関する研究がたくさんあるのでは?」と思われるかもしれませんが、あることにはあるのですが、神経心理学のメインはどちらかというと、ここの脳の領域が壊れると文字を読むのが困難になるから、この脳領域は文字を読むのを司っている(高次脳機能障害 higher brain dysfunction)とか、動物の画像を見せると脳のこの部分の血流が活発になるので画像処理はここでやるんだ(認知神経科学 cognitive neuroscience)、じゃあ逆に脳の血流状態から何を見ているか読み取れるのでは(脳情報デコーディング brain decoding)なんかが盛り上がっていて、今はあまり主流じゃないんですね。というのも、先の理由と同じく「好き」とかそういう感情そのものの定義が難しくて、という話。

 神経心理学自体の話は置いておいて、ひとまずそこで「好き」ということを調べるのに知っておくべき概念が一つあります。それは「情動」です。

情動 (英)emotion (独)Gefuehl

感覚刺激への評価に基づく生理反応、行動反応、主観的情動体験から成る短期的反応のこと。中長期的にゆるやかに持続する強度の弱い気分(mood)とは区別される。情動は、齧歯類から共通する怒り・恐怖・不安から、霊長類に特徴的な高次の社会的感情までの多岐に渡り、思考や推論といった高次の認知過程にも影響しうる。情動の基盤となる神経回路は、扁桃体視床下部をはじめ、島、腹内側前頭前野などの脳領域、および上向系の伝達経路より脳に入力される身体情報との関わりが注目されている。

(野村 2013)

 情動は、脳科学的な話だとよく話題にあがる概念ですね。「情動が先か情動が後か(悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのか)」というのも未だに解決していない大問題の一つです。「感情」といった曖昧な言葉ではなく、「情動」は確固たる定義がある学術用語なので、議論の際はよく使われます。ちなみに気分 moodの研究はそんなに盛り上がってません、長期的な反応は観測に時間がかかるし、情動ほど強くデータに現れないからです。

 さて、では!「好き」という感情はどの情動に対応して、どういう部分の脳の活動が活発になるんでしょうか!

 ……実はあんまりはっきりしてないんですよ。だいたい、感情をどう分けるかの時点で「6種類だ」(Schlosberg)とか「いや基本感情と微妙感情と背景感情があって」(Damasio)とか「感情っていうのは、心理的な全経験から表象性の心理仮定(思考・概念・言語性表象・視覚性表象・聴覚性表象・体性感覚性表象・運動覚性表象・嗅覚性表象・味覚性表象などが作り上げる知覚表象複合)を引いたもの」(山鳥)とか、色々、迷走してて。バシッとした定義はないです(2018年現在)。「なんて不甲斐ないんだ」と思ったそこの貴方は、今すぐこころの未来研究センターに行って研究だ!

 というわけで、「好きになると脳のこの部分が活性化する」という方向からのアプローチは失敗におわるわけです、というと神経心理学に申し訳なさそうなので、余談を2つします。

 1つ目、Beauty-is-Good Streotypeとそれにまつわる研究。Beauty-is-Good Streotypeというのは「魅力的な顔をもつ人物は、そうでない人物よりも、性格的に良い人物であると判断されるという反応バイアス」です。「あばたもえくぼ」という奴で、好きな人がやってることには判断が甘くなる、という(逆にいえば、判断が甘くなれば、「好き」って事なんじゃないかな)。研究によると、実際そういう傾向はあるらしく、また、顔の魅力の向上+「良い」印象があれば、眼窩前頭皮質報酬系の1つ)の活動が活発化し、顔の魅力の低下+「悪い」印象があれば、島皮質(「痛み」に関係)の活動が活発化するそうです(Tsukiura and Cabeza 2011)。おお、具体的な脳の名前の場所が上がりましたよ、皆さん。しかし、好きと嫌いで反応する場所が違うことを見ると、「好き」というのは複合的で高次な脳の働きで、「脳のある場所が活発=好き」という定義は難しそうですね……。まあ「※ただしイケメンに限る」というのは科学的にも存在するということで。世知辛いのじゃー。

 2つ目、さっき情動の定義を引用した脳科学辞典の宣伝です。Wikiなんですが、研究者の査読が入ったものしか載らないし、執筆しているのも研究者のグループなので非常に信頼できる良いウェブサイトです。単純に「脳科学」でぐぐると、どうしても「脳にいいんですよ~」の人とか、仮想通貨とかアフィ界隈と親しい漢字三文字の読みづらい人とか、そういうのが出てきてしまうので、脳について勉強したい学生はこのwikiを参照するのがいいかと思います。で、気になったら参考文献を読むなり借りるなり。おすすめ。

脳科学辞典:索引 - 脳科学辞典

2-5. 社会学的「好き」

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 やって来ました、我らが社会学。タイトルにもなってるのに登場が遅いですね。今更ですがタイトルに深い意味はありません。「○○の社会学」って書くと社会学っぽいのでそうしてるだけです、要するに社会学内輪ネタ。

 さて、脳科学的なアプローチに敗れたならば、もう少し視点を引いて社会的な、行為主体と行為主体の関係性でもって「好き」を捉えましょう、というわけで社会学です。社会学で「好き」と言えば語らねばならない人が一人いますね、それを見ましょう。

ギデンズは、両当事者が協力関係を維持しようとする感情を記述するために「コンフルエント・ラヴ confluent love」という用語を、そして、その基礎の上に築かれる協力関係を表現するために「純粋な関係 pure relationship」という用語を提示した。コンフルエント・ラブは、単純に「ある瞬間、両当事者が相互に愛し合い、相手に惹きつけられ、相手と一緒にいたいと願うこと」を指す。

(Bauman and May 2001 = 2016 : 210-1)

 Anthony Giddensはイギリスの社会学者。1938年生まれで、まだご存命です(2018年現在)。「一緒にいたい(生存したい)と思い、そしてその生存と一緒にいるために協力する関係」こそが「好き」の純粋な部分。顔が良いとか、肉体的関係とか、経済的利益とか、そういうのを廃した純粋な愛っていうのはそこにあるんですね、はえー。そしてこの概念には重要な点が一つあり、それは両当事者が「自由意志」でこの行動を取れることです(やめようと思えば片方の意志でやめられる)。それゆえ、不安定で曖昧な状態に恋愛は常にさらされるとギデンズせんせーはおっしゃってらっしゃる。っぽいですね。他の人を見てみましょう。

ルーマンはわたしたちが激しい愛の欲求をもつ――愛し、愛されることを願う――ことと関連付けて、自己アイデンティティの探求を問題にした。(中略)「愛される」ことはまた、「理解される」ことを意味する。「わたしのことを分かってほしい!」と言い、あるいは、煩悶しつつ「わたしのことが分かっているの? 本当に分かっているの?」と聞くときと同じ意味で「理解される」ことがそれである。

(Bauman and May 2001 = 2016 : 186-7)

 ここでいうルーマンとはドイツの社会学者Niklas Luhmann(1927-1998)のことです。彼は「好き」というより「好かれる」ことをアイデンティティと結びつけていますね。つまり、「好き」というのは「私はあなたを、あなたであるがゆえに(無条件に)その存在を承認する」ということでしょうか。アイデンティティは常に揺れ動き、自らの資産や社会的地位といったものに基づく他者からの承認は非常に脆弱であるため、人々は無条件の承認を求めます。子どもの時はそれは多くが母親から与えられるのですが、それを「他のだれか」に求める、それが恋愛関係でしょうか。ラカンっぽいですね。

 「でもそれって承認欲求の話じゃん、本当の愛ってそんなもんじゃなくね」という人のためにもう一人紹介しておきましょう。

ボードリヤールは、あるインタビューで、愛のようなものが存在するかどうかを問われて、こう応じた。[愛をめぐる心的葛藤が無意識のうちに]「行動化 acting-out」することはあっても、「愛について語るべきことはそう多くはない」。ただし、それが真実であったにしても、かれの分析に因って、[愛の問題が解消するわけではなく]相互の愛情や相手の愛情の確証を求める人々はいっそうその重荷を背負い込むだけである。というのも、[市場を通して供給される]愛の代替物を前にして、人々は一歩退いて、かれらが「本当の愛」と思うものを求めるからである。

(Bauman and May 2001 = 2016 : 194-5)

 「本当に好き」とかそういうものはないんだ。人々がそう思ったり、何らかの行動をそれでしたとしても、それはそういう「行動化 acting-out」があるだけで、「本当に好きとは何かを追い求めるのは徒労」なのだ――。あ、ボードリヤールポストモダンの王、フランスの哲学者Jean Baudrillardのことです。

2-6. ジェンダー的「好き」

 そんな!「好き」の定義を知ろうと思って色々読んでいるのに、徒労だったなんて――。だが待って欲しい。本当にそうだろうか。最近はジェンダー研究が流行っている。テレビに出たりツイッターでなんか日がな喋っている彼女ら/彼らならば、もしかすれば答えを既に知っているのではないか。一行はジェンダージェンダー研究も社会学の一分野ですけれど)に飛んだ。

ロマンティックラブ・イデオロギー romantic love ideologyとは、「一生に一度の相手と恋に落ち、結婚し、子どもを産み育てる」という物語であり、愛と性と生殖が、結婚を経由することによって一体化したものです。

(中略)

日本におけるロマンティックラブ・イデオロギーの始まりは、作家の北村透谷であると考えられています。北村は『厭世詩家と女性』において、「恋愛は人生の秘鑰なり、恋愛ありて後人生あり、恋愛を抽き去りたらむには人生何の色味やあらむ」、つまり恋愛は人生の秘密の鍵であり、恋愛があって人生があり、恋愛がなければ人生に何の面白味があるだろう、と書いています。

(中略)

前近代における性愛の典型は、江戸の遊郭にあると考えられ、近代の「恋愛」とは異なる「好色」が行われ、それが「いき」であると考えられていました。ところが明治20年代中ごろに、英語のloveの翻訳語として「恋愛」という言葉が発明され、広まっていくのと同時に、「人格」という概念も翻訳を通じて確立されていきました。恋愛は「近代的自我」の成立と、深い関係をもっているのです。

 ところが北村自身は「近代的自我」に基づく理想の恋愛と、現実の結婚がはらむ矛盾に耐えきれないかのように、自殺してしまいます。考えてみれば、「個人」として生きていくことと、1人の相手を一生愛し続けると近い、自分の感情をコントロールし続け、相手の感情に反応するかたちで自分の人格を形成していくことは、論理的には正反対といっていいものです。

(千田, 中西, 青山 2013 : 39- 40)

 少し長く引用してしまいました。この本ではこの後、家父長制の批判に続いていき「恋愛」の話は終わるのでとりあえずここまで。つまり、ロマンティックラブ・イデオロギーとその「無理さ」の存在は以下のことを示唆しています。「好き(恋愛)には社会的に理想なり共通の意味があるように思われるが、それらは社会的に作り上げられた幻想にすぎず、実際は人それぞれである」と。そ、その通りとは思うんですけども、まって、じゃあ「好き」ってそもそも一体うごご……。私のこの気持ちは?あの人の気持ちと一致していないの?みんな人それぞれ違う人格や考えがあるのは分かるけれど、この私の甘酸っぱい気持ちは……「好き」ってことなんじゃあないの……?

3. さいごに

3-1. 脳をチューニングせよ

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「学問の馬鹿、もう知らないっ――『好き』って何なのよ!何がひとそれぞれよ!教えてよ!私のこの感情は何?あの人は私のことをどう思っているの?何が社会学よ、何がジェンダーよ、何が勝部元気よ、何が上野千鶴子よ、もう嫌になっちゃう!」

 僕は気づけば夜の街を走り回っていた。三条の裏路地は真冬だというのにある程度の活気があり、怪しげな店の看板や、サラリーマンと女子高生の取り合わせなどが、世も末な雰囲気を漂わせながら僕の周りを取り囲んでいた。

ドッシーン! 僕はジャケットを来た大柄の男性にぶつかる。

「いったーい!何やってんのよ!」

「お嬢ちゃん、一人かい?いいものがあるんだ」

そういうと男は懐から、小さな袋を取り出して私に見せた。

MDMA(エクスタシー)

19世紀末、覚醒剤から合成された。幻覚誘発剤としてはパワー低いが、多幸感や自我意識の強調に特徴。80年代に流行、現在でもロンドンのクラブ・キッズに人気。

(青山 2001 : 83)

60年代前半、かのティモシー・リアリーは『プレイボーイ』誌のインタビューに応じ、こう述べている。「性的関係の深まりと性的エクスタシーの上昇が、LSDブームの主な原因である」。(中略)セックスするか否かは本人の意志次第であって、ヘロインよろしく、たゆたうような酩酊感にどっぷり浸っていたい向きは、したくもないセックスを無理にする必要はない。しょせんセックスなんていうものは、ドラッグがもたらす”めくるめく官能世界”を知らぬ庶民の娯楽にすぎないのだから

(青山 2001 :134)

エム(MDMA)を一回やったことがあるんだけど、目の前の相手のことが好きで好きで仕方がなくなるのね。「好き」「好き」っていいながらセックスして、その間も相手のことがずっと「好き」でたまらなくて、ずっと一緒にいたい、解けてしまいたい、これが「愛」なんだ、ってなるの。どんなに相手が不細工だったとしても。

(知人談)

 セックスしたい、というのが「好き」ということなのか。こいつの遺伝子を自己複製したいと思えば「好き」なのか。それは社会によって決められた幻想にすぎないのか、こういうことを考えるのは徒労なのか。

 街をゆく人々は、そんなことを悩んでいない振りをして、仕事をしたりセックスをしたり家庭をもったりしている。こんなことを悩んでいるのは僕だけなのか、それとも――ブツン。

テレビの音を切ったとき、あたしはナンバー382のムードだった。ダイヤルしたばかりだったの。だから、その空虚さを頭で認識はしても、心は感じなかった。うちがペンフィールド情調(ムード)オルガンを買える身分なのはありがたい――最初の反応はそれだったわ。でも、そのあとで、それがどんなに不健康なことであるかに気づいたの。このビルだけじゃなく、あらゆる場所での生命の不在を感じ取りながら、それに対してなにも反応しないことが――わかる? あなたにはわからないでしょうね。でも、むかしは、そういう鈍感さが精神病のひとつの症候と考えられていたのよ。”適切な情動の欠落”という名で。

(Dick 1968 = 1977 : 10)

3-2. 政治学的「好き」

 結局のところ、学問なり文学なりが、「好き」ということに人類共通の定義を与えているようには思えない。しかしながら、政治のシステムは、ある程度、「人が人を好きになり」「家庭を作り」「子どもを産む」ことを前提にして動いている。もっとも根底にある理論が理解されないまま、その上に様々なものが積み重なっているという状況は、数学や物理など多くの学術的分野で見られるが、政治もまた然りということか。

 「少子化」が声高に叫ばれているし、それとは反対に「恋愛の自由」ということも叫ばれている。しかしながら、そこでそもそも「好き」とか「恋」っていうのは何なのかというのは、「みんな分かっているでしょ?」と適当に流されているきらいがある。

 しかしながら、私が思うに、根底の定義が曖昧で未定義であるならが、そこから演繹されている諸理論や諸倫理というのは無意味なものにすぎないと思う。論理を空転させる元気とリソースがあるのならば、もう少しその根底にある「好き」というものを真剣に捉え直すことが――恥ずかしがらずに――必要なのではないか、と私は考えた。だが、そんなものに答えはないのかもしれない。

 つまり私は、「好き」の問題を本質的な点において最終的に解決したと考えています。そして、語ることができないことについては、沈黙するしかない。

 Ich bin also der Meinung, die Probleme im Wesentlichen endgueltig geloest zu haben, und wovon man nicht reden kann, darueber muss man schweigen.

3-3. 経済学的「好き」

 「好き」に関することをある程度、集めてみたつもりではあるので、一応、「恋愛工学」にも触れておきましょう。あれは「モテる=多くの異性とセックスできる」と定義して、とにかく倫理観もなにもかもかなぐりすてて、その目標の為に邁進する一連のテクニックですが、つまるところ著者は「好き=セックス」と考えているところがあるのでしょう(工学徒の方、違っていたらお便り下さい)。

 あれがどのような論理でどういう問題点があるのか、というのは多くの他の文献があるでしょうから、それに譲るとしますが、恋愛をそのように捉えるとか、あるいは恋愛をゲーム理論的に捉えるとした場合に、「好き」あるいは「恋愛」に対してある種具体的なものを求める傾向があります。

 それはもちろん、そうでなくては勝ち負けを数値で測れず戦略も立てれないという要請によるのでしょうが、私個人的にはあまり「好き」な考えではないです。というのも、人間の複雑な「好き」という感情が一つや二つのパラメータで測定されてほしくない、という思いからですね。

 しかしながら、一つ付け足して置くとすれば、「好き」にそのような具体的な意味を付与するのは、本人にとってはある程度有用なことのように思います。具体的な定義さえあれば、このように長文を書くことになる羽目になりませんし、自分が次にしなければいけないことも明白です。「使命感」のある人生は「悩み」がないですからね。ジョジョだ。

3-4. なんだかんだで側にいてくれてるあなたが「好き」

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 話がとっちらかりました。まとめましょう。「好き」というのは何か、という単純な問いから様々な分野を横断してその定義を探ろうとしましたが、画一的なものは見つかりませんでした。どうも、

  • 一緒にいたいと思う気持ち
  • 相手を承認してあげたいと思う気持ち

あたりは共通して「好き」という名前が与えられているようですが、それは社会的に作られた幻想かもしれないし、意味を探ること自体徒労なのかもしれません。もしかするとMDMAを飲んだ時の感情が「好き」なのかもしれないし、「セックスしたい」が「好き」なのかもしれませんが、統一的な意味が登場することは、恐らく今週いっぱいはなさそうです。

 結局は自分で「好き」を定義するのが丸そうです。この記事では出来る限り、採用できそうな「好き」の定義を集めたつもりです、皆さんも自分なりに定義してください。自由に定義していいんですよ、なんせ正解なんてないですからね。ほら、ぴゅー。綺麗に定義できたでしょう?バンダイキブラウンを塗っていきましょうね。

 うーん、個人的には「相手を無条件で承認したいと思う」のが好きってことにしときましょうか。ちんこがついているので、「勃起したら」でもいいんですが、それだとあまり風情がなさそうなので。

 あと僕は彼女が大好きです、世界で一番かわいいと思ってます。

 それじゃあ、皆さん読んでくれてありがとうございます、また次の記事でお会いしましょう、またのーぅいや!

社会で宇宙人なんてあだ名でも

宇宙の待ち合わせ室で

メイビーまた巡り会えるよね

愛してくれるかなと

狂ったりしてみると

みんなが避ける中でぱちくり見ているあなたがいたから

テレパシる気持ちが

電波が違くても

きっとね何か掴んでくれてる

あなたのことが好き

 

受信してくれるのかなと

心配もしてるんです

なんだかんだで側にいてくれてる あなたが好き

そんなあなたの事が好き

そんなあなたの事が好きなんです

あなたの事が好き

そんなあなたの事が好きです

 

きっとあなたしか受信できないの

 

エリオをかまってちゃん『Os-宇宙人』)

[文献]