新・様相論理への招待
2018/02/11 - 初回更新
2018/02/13 - 第1章更新
tayun3mikonurse.hatenablog.com
春休み(2月/3月)を通して、上掲ブログのユーレイくん発案のもと「A New Introduction To Modal Logic(新・様相論理への招待)」の読書会に参加することにしました(毎週金曜日KUでやるので参加したい人はユーレイくんに言えばよいかも)ので、それの為に気まぐれに翻訳したものや重要な部分をここにこっそり掲載することにしました。
この本の私家訳pdfです(1章まで完成)
以下がこの本の序文です。他の部分も翻訳するなどしたら、この記事に随時追加できればよいなと思っております(主にpdfになると思いますが)。
序文
様相論理 Modal logicは、必然性 necessityと可能性 possibility、つまり「必ず~である」と「~は可能である」の論理である。よってこれは、実際に成り立つものかそうでないか、という真実 truthと虚偽 falsityのみだけを考えるのではなく、事物らの間に差異がありうるかについても考える。我々が実際の世界である事物がどのようなものかを考える時、私たちは他の世界で、その事物の代わりとして何があるか、その事物がどのような状態でありえるか、どのような状況であるか――あるいは可能であるか、ということについても考えるだろう。論理学 logicは真実か虚偽かについて主に取り組む。様相論理では、我々は実際の世界のようにありうる世界での真実あるいは虚偽について取り組む。この意味で、ある命題が、その世界とそれに連関してありうる全ての世界で真実である場合、それは必然 necessaryとなり、その世界とそれに連関してありうる全ての世界のどれか一つ以上で真の場合、それは可能 possibleとなる。これがこの本の最初の章で述べられることの全てである。
この本の狙いは、読者に様相論理を紹介することであって、我々は様相論理について何も知らない読者を想定して書いている。我々は、今までに何の論理学を学んでいない人物にさえ対応できるような内容にこの本を書くことを試みたつもりだ。しかしながら、我々は多くの読者が既に少しは命題論理や述語論理などの様相論理ではない論理学について知っていることを想定しており、それは様相論理を理解するための基礎知識として活用できるだろう。
この本は我々の先の二つの著書であるAn Introduction to Modal Logic(Hughes and Cresswell, 1968, 以下IML)とA Companion to Modal Logic (Hughes and Cresswell, 1984, 以下CML)の新たな代用となることを意図している。あらかじめ、それら二つの本とこの本の関連性についてここで述べておこう。第1部はIMLで述べた範囲のほとんどに、二つの重要な変更を付け加えたものになっている。一つ目の変更点は、CMLでもそうだったように、システムTよりもシステムKを基本的に用いている。二つ目の変更点は、これもCMLでもそうだったように、我々は(第6章で)完全性を証明するために正準モデル canonical modelの方法を使用している。様相連言標準形 modal conjunctive normal formsの方法はS5の完全性を証明するのに(第5章に)残されており、公式らを証明するためにIMLで使った意味論ダイアグラム sematic diagramsの方法も(第4章に)残しているが、この方法による完全性の証明は省くことにした。
第2部は、CMLでも扱った、様相命題論理のトピックを論じている。今のところ我々は、導入としての役割を果たすため、これらを特別繊細に論じている。だから例えば、我々の有限モデル finite modelsへのアプローチは、CMLでのフィルター filtrationsによるより標準的な方法より、追うのが簡単だと信じている。この本のこの部分は専門家たちにとってより興味的であるだろうにも関わらず、我々はこのトピックを提示するのに、第1章を読んできた読者がより簡単に議論を追うことが出来る方法を使用するよう試みている。IMLの第3部は1968年当時の様相論理の概観を含んでいた。現在ではもはや、そのような概観は不可能だが、我々は第11章で一応、様相論理の今までの歴史におけるより重要な発展のアウトラインを示すことを試みている。そのため、より詳細を知りたい読者はIMLを参照してほしい。
第3部は、もっとも執筆が困難であった。様相述語論理 Modal predicate logicは、様相論理のなかで最も哲学的に重要な部分であると考えられており、この本は形式論理 formal logicの本であり、哲学的論理の本ではないが、我々は、ある世界で存在するが他の世界ではそうではない事物や、同一 identicalであると断言できるが必然ではない事物に関しての重要な哲学的な問いに耐えうる程度にこのトピックを議論したつもりだ。不幸にも、様相述語論理の意味論はいっとう複雑であり、我々は出来る限りアプローチしやすく議論を構成したが、読者にとっては重荷を与えることになってしまった。とにもかくにも我々は、読者が辛抱さえあれば、この本以外の知識を必要とせずに全ての証明を追うことができるような技術的素材を本書に配置したつもりだ。
George Hughesは1994年4月4日に死去した。我々が最初の5章を書き終えた時のことであった。第6章と第2部のほとんどはCMLに準拠しているが、この部分に関して我々は既に多くの議論を交わしていた。私は苦心して原稿を作り上げ、私の能力のすべてを持って、Georgeが生きてその完成を見るに値するような形式に近づけるように努力した。第3部では彼の協力の欠落を私は大きく実感することになり、ここWellingtonにいたRob GoldblattとEdwin Maresに多くの部分を校正、コメントをありがたく頂戴する形になった。ここで様々な読者や、「ウィッシュリスト」を送ってくれた世界中の同僚たち――私たちは必ずしもその全てを採用できなかったが――に改めて感謝したい。
我々の部署の秘書であるDebbie Luyindaにも、この我々の原稿を最初にコンピュータへ入力するという退屈な仕事を遂行してくれたことについて、感謝を申し上げる。
A New Introduction to Modal Logic
- 作者: M.J. Cresswell,G.E. Hughes
- 出版社/メーカー: Routledge
- 発売日: 1996/08/15
- メディア: ペーパーバック
- 購入: 1人 クリック: 4回
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オネエ系タレントは何故テレビ業界で生存できたのか
※本記事は@oz4point5が授業用に執筆したレポートの修正版です(評価が終了したようなので記事として公開します)
※CC-BY-SA 3.0とします
※pdf版は以下からダウンロードできます
オネエ系タレントは何故テレビ業界で生存できたのか_RE_匿名.pdf - Google ドライブ
はじめに
今日では、テレビの持つ影響力は以前のそれに比べかなり限定されているとはいえ、その存在感は未だ大きい。また、テレビに関連した業務に従事する人々も数多くいる。その中でもテレビ画面に直接映される芸能人、あるいはタレントたちは日々めまぐるしく移り変わる流行の中、厳しい生存競争に晒されながらも、聴衆の感情を動かすべく苦心している。
その中でも、ひときわ特徴的なグループが存在する。具体的な名前を挙げるならば、タレントイメージランキングで男性3位、女性2位を獲得したマツコ・デラックスを始め(ビデオリサーチ2017)、ヘアメイクアーティストであるIKKO、ドラァグクイーンのミッツ・マングローブ、よりベテランの方で言えばシンガーソングライターの美輪明宏もそうだろうか、いわゆる「オネエ系タレント」と呼ばれるグループだ。彼女ら、あるいは彼ら(以下、簡単のために、彼女らと呼ぶ)が自らのことを、「オネエ系」と事称することは決して多いとはいえないが、テレビを始めとした多くのメディアにおいて、彼女らはそのグループの一員として、しばしば纏めて扱われる(週刊SPA!編集部2015など)。
彼女らがメディアに多く露出している現状を取り上げ、「日本のメディアはLGBTに対しての偏見が少ない」とする意見も一定数あるようだ(福井2017)。だが、本当にそう言ってしまって良いのだろうか。確かに、オネエ系タレントの中にはいわゆるLGBTといわれるセクシャル・マイノリティも少なくない。だが、彼女らがテレビで取り上げられていることは、そのまま「LGBTに対する差別が少ない」ことを表している1と言えるのだろうか。
結論から言えば、テレビに現れるオネエ系タレントたちの現状の扱われ方は、彼女らに対する偏見が少ないというよりはむしろ、偏見ゆえに今のようになっている、というほうが正しい。そして、それはテレビに代表されるメディアが、オネエ系タレントにどのような役割を求めているのか、という事から読み解く事ができる。本文では、オネエ系タレントという言葉の定義の曖昧さから始め、テレビ業界が求めているオネエ系タレント像を考察し、その性質を明らかにしたい。
1. オネエ系タレントとは誰か
1-1. メディアに映るLGBT
テレビを始めとして今日のメディアに映るLGBTの扱いに関しては、確かに向上していると言える部分はある。例えば、2016年にヒットしたドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」では主人公の同僚がゲイとして、面白おかしくではなく、適切な形で登場していたし、
KABA.ちゃんやマツコ・デラックスさんをはじめ、今やLGBTの人たちをテレビで見ない日はない。また、かつてのような「ホモセクシュアル=気持ち悪い」といった明らかに差別的な扱いは影を潜めた。日本民間放送連盟(民放連)の放送基準を見ると、「性的少数者を取り上げる場合は、その人権に十分配慮する」と記されており、解説書には「『ホモの見分け方』コーナー」や「『こわくて行けない場所』というタイトルで、隠しカメラで撮影したホモセクシュアルのキスシーンなどを流す」といった内容が問題視されたと紹介されている。
という記事もある(福井2017)。だが一方で、同記事内では明治大非常勤講師(性社会文化史)の三橋順子が、
「LGBTと言っても、バラエティーに登場するのは過剰に女っぽいゲイ(おネエ)ばかり。実際にはマッチョな男性的なゲイのほうが多いのに、女性っぽいゲイしか取り上げられないことが多いんです」
と述べている。LGBT全体としてはともかく、オネエ系タレントが過去に比べてテレビに受け入れられつつあるのは事実なようだ。番組を制作する側のスタンスはどうだろうか。日本企業のうち、LGBTに対する基本方針(権利の尊重や差別の禁止などを規定するもの)、いわゆるLGBTポリシーを持つ企業は22.4%だという(東洋経済新報社2016)。テレビ局などを運営する企業はそのほとんがLGBTポリシーを持っており、確かに過去のようにLGBTに対する差別的な番組をそのまま放映するということは少なくなってきているようだ。
だが、メディアへの露出が多いことと、差別意識がないことは決して等価ではない。欧米におけるミンストレル・ショー(1840年代以降にアメリカで流行した、黒人の特徴を白人演芸者が模倣するショー)の問題が代表的だが、観衆がタレントに感じる魅力というのが差別的価値に基づいている――あるいはそれが非差別的な興味と混同されている――可能性があるからだ。その評価は慎重に行う必要があるだろう。
1-2. オネエ系タレントとは
さて、ここまで特に断りなく「オネエ系タレント」という言葉を用いてきた。これは一体、誰のことを指すのだろうか。先に一部の具体名を列挙したが、このように複数人の集団の名前を用いる場合、その基準を示すのが通常だろう。
だがしかし、実のところ、オネエ系タレントには確固たる基準があるわけではない。後に詳しく見ていくが、オネエ系タレントと称される人物の中には、自分のことをそう呼称されるのを嫌っている人もいるし、いわゆる「オネエ口調」を用いない人もいるなど、多種多様である。これは、タレントたち本人ではなく、番組製作側、あるいは視聴者側が彼女らを一方的にカテゴライズした結果に他ならず、またそれこそがオネエ系タレントが持っている問題の核心といえる。
しかしながら、分析を行う上において、対象となる人物が定まっていないのは不便である。そこで、多様な媒体やSNSで、「オネエ系タレント」として扱われた記事が存在する人物を集め、その中でタレント名鑑(VIPタイムズ社2017)に記載のある者を対象とすることにした。具体的には以下の通りである。これは、我々の直感的なオネエ系タレントのイメージとは少し相違があるかもしれない。だが、それは出来る限り多様な人物を対象としつつ、ある程度の客観性を持たせるための措置としてご容赦願いたい。本文は、彼女らこそが「オネエ系タレント」だと規定するつもりもないし、また各人がそう自称しているということも保証しない。
IVAN,KABA.ちゃん,おすぎ,カルーセル麻紀,クリス松村,たけうち亜美,つげりょうた,はるな愛,ピーコ,マツコ・デラックス,ミッツ・マングローブ,りゅうちぇる,楽しんご,佐藤かよ,三ツ矢雄二,山咲トオル,植松晃士,真島茂樹,如月音流,尾木直樹,美輪明宏(五十音順,表記はタレント名鑑に基づく)
ただ、彼女らが何らかの媒体で「オネエ系タレント」と呼ばれたことがあり、今回の分析の対象とすることのみを意味する。また、「オネエ系タレント」という用語にも多様な亜種が存在する(「おネエキャラ」あるいは単に「オネエ」など)が、彼女らがタレント名鑑に記載があり、また「系」というような漠然なイメージで語られることが多い、ということを踏まえて「オネエ系タレント」に以下では語を改めて統一する。
2. キャラとしてのオネエ
2-1. オネエ系タレントの条件
オネエ系タレントの定義が記された辞書などは存在しないが、しかしながらその語が存在する以上、曖昧であるにせよ何らかの条件がそこには存在するはずだ。そして、それが集団を呼称するときの名前である限り、ある人物がオネエ系タレントになったり、あるいはそうでなくなったりすることも可能なはずである。
振付師であるKABA.ちゃんは2014年に性別適合手術の1つである睾丸摘出手術をタイで受け、そのことをテレビで告白した(リテラ2014)。これは現在の日本において戸籍上の性別変更を行うために、性器を「希望する性別の性器に似た外観にする」必要がある(性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律第3条)ためでもあったようで、2016年には実際に戸籍を女性に変更している(ORICON2016)。その結果として、KABA.ちゃんは次のように語っている(福井2017)。
ただ、自分が戸籍も女性になった時にあるスタッフから「扱いづらくなった」と言われた時にはがっかりしました。だったら、女性になったと言わないほうがよかったわけ?オネエなら面白おかしく扱えても女性になったら扱いづらくなる、というのも変な話ですよね。まだメディアの世界は柔軟じゃないと感じさせられました。
どうやら、彼女は、戸籍が女性になったと発表したときから「オネエ」とは扱われなくなり、同時に扱いづらくなった、と感じているらしい。どうも番組制作側からすればオネエ系タレントには、何らかの求められる条件あるいは像が存在し、それゆえにオネエ系タレントとして番組に出演させたいようである。とすれば、その「像」とは一体どういうものなのだろう。
2-2. オネエキャラ
この番組制作側がオネエ系タレントにもとめている「像」のことを、ここでは「キャラ」と位置づけ、そしてそれを「オネエキャラ」と呼びたい。キャラとは「特徴」「性質」といった言葉を意味するギリシャ語のkharakterあるいは、そこから誕生した英単語characterから派生した単語(Oxford2018)であり、人口に広く膾炙しているといえる概念である。
だがしかし、その言葉は非常に日常的であるがゆえ、多義的であり、もともとの意味に様々な文脈が付加されて現在に至っている(斎藤2011:10)。「キャラ」という言葉自体の定義も難しいが、ここでは以下のような理由からその語を用いる。
- オネエキャラとはテレビで「演じられる」ものである
- オネエキャラには確固たる定義がない
- オネエキャラとは人々のイメージの集合としてそう呼ばれているにすぎない
- オネエキャラは、その名前以外の属性の流動性が非常に高い
- オネエキャラはしばしば当事者の自己同一性を形成する
これは斎藤環や新城カズマらによってしばしば語られる「キャラ」の定義と一致するものである。このことから、オネエ系タレントは「オネエキャラ」の性質をもち、「キャラ」としてしばしば振る舞うと考えられる。
2-3. 「キャラ立ち」するオネエ
キャラは「立つ」ものである。そして、テレビにおいて人気を得るために、それは非常に重要なものだ。「キャラが立つ」というのは本来はマンガの手法として用いられていた言葉で、登場人物の個性を読者にとって印象的で際立ったものにする、という意味であった(斎藤2011:12)。
だが、その言葉は1980年代ごろからテレビ業界――特にお笑いの分野で――使用されるようになっていく(新城2006)。「キャラ」とは演技するものであり、お笑い芸人は「ボケキャラ」と「ツッコミキャラ」を与えられ、自らの役割を明確に示すようになったのだ。
それ以降、「キャラが立つ」ことはテレビ業界で人気を得るうえでほぼ必須の条件となっていき、番組制作側も次の「キャラが立つ」タレントを発掘するのに躍起になっていく。先輩の芸人や構成作家、テレビ局の社員はしばしば新人に「キャラを作れ。それが売れる早道だ」とアドバイスするという(瀬沼2007)。
オネエ系タレントに要請されるオネエキャラも、その一環と考えるのが自然だろう。視聴者に提供されるわかりやすい個性――それも曖昧で大雑把な――を提供するために番組制作者はオネエ系タレントにオネエキャラであることを半ば強制し、タレント側もその期待に答えていく。
一部のオネエ系タレントは派手な女装を行っており(IKKOや美輪明宏などが女性のタレントと比べても色の濃いアイシャドーや口紅をつけていることに代表される)、それはひと目見ただけで判別できる。他にも、先述の通り、人気の高いマツコ・デラックスは、非常に大きな体格と黒いシルクの特徴的な衣装が印象に残る。
テレビは同じ映像を何度も短い時間で繰り返して報道することがあるし、ある番組に出演していても実際画面に映る時間は非常に短い、ということもある。そんななかで強烈な存在感を放つことができるオネエキャラ――もちろんそれが動きや口調だったり、他の出演者からの扱われ方に起因することもあり、それもまた「オネエキャラ」といえる――はテレビ番組にとってとても「美味しい」存在なのだろう。
2-4. 無視されるオネエたちの差異
先程も述べた通り、キャラとして扱われることは、厳密に一人ひとりの個性を参照することなく、その大雑把な属性でのみ評価を受けることに繋がる。オネエ系タレントもその傾向が顕著で、「オネエキャラ」であることは把握されていても、その本人がどのような属性、たとえば性自認やセクシャリティかというのはしばしば混同される。マツコ・デラックスは番組中に自分のことを「子持ちの女性」だと勘違いされたことに際し「何もかも間違っている」と言及したこともある(トピックニュース2014)。
そもそも、オネエ系タレントは統一の性自認やセクシャリティを持っている人々ではないことを再確認したい。「オネエ」という単語からしばしば彼女らは「男性」であり、「女装」をしていて、そして「男性愛者」である、という誤ったイメージを持たれるが、全くそのようなことはないのだ。(出典:ハートネットTV2013,J-CASTニュース2007,しらべぇ2016,salitote2012,週刊SPA!編集部2015,福井2017,ナリナリドットコム2017,AbemaTIMES2017,テレビドガッチ2016,まいじつ2017,羽田2015,女性自身2016)
【男性に性的な興味をもつことがある】KABA.ちゃん,カルーセル麻紀,つげりょうた,マツコ・デラックス,ミッツ・マングローブ,三ツ矢雄二,植松晃士,美輪明宏
【女性に性的な興味をもつことがある】りゅうちぇる,尾木直樹
【両性に性的な興味をもつことがある】真島茂樹
【男性から女性への性別適合手術を受けた】KABA.ちゃん,カルーセル麻紀,たけうち亜美,はるな愛
上図からも分かる通り、オネエ系タレント自身が公表している中でもセクシャリティに多くの差異があることがわかる。性同一障害であったりなかったり、自身の性認識や、性的な興味に至るまで各人で様々に違う。彼女たちをひとまとめに「オネエ系タレント」とすることは実に曖昧な区分であることが分かるだろう。断っておきたいのは、今現在も彼女らがこのセクシャリティであるかどうかは、分からないということだ。
また、セクシャリティというのは厳密に言えば、一人ひとり違うし、普段はそれを公にするものではない。本来はその多様性を認識し受け入れるのが「セクシャリティによる差別意識をなくす」ということである。しかしながら、このような多様性を持ちながらも「オネエ系タレント」としてグルーピングされ、個々の違いに着目されることがない彼女ら(上記の出典記事においてもその多くが「今明かされる」や「今になって言える」という語り口が多く日常的にその部分に注目されていないことが伺える)が、テレビ業界において差別なく受け入れられているかというと、決してそうではないだろう。
多様性を否定して非常に曖昧な区分で「キャラ」としてオネエ系タレントを扱う現状は、彼女らの個々を見ず全体として扱っているということであり、それは本来の「差別のない意識」とは真逆に位置づけられるものだろう。
2-5. 蓄積される「オネエ」の記号と文脈
ここで「オネエ」という単語の語源にも少し触れておきたい。その初出ははっきりとしないところが多いが、そもそもに「オネエ言葉」という単語の存在があったことはどうやら確かなようだ。ゲイカルチャーの一部で女性的な仕草を表す記号として「だわ」「わよ」などの言葉を使われていたのをさして「オネエ言葉」という言葉は広がっていった(小林2007)。
この「オネエ言葉」を使用する人物のことだけを「オネエ」と称してきたか、といわれるとそうとも言い切れない。新宿2丁目を始めとするゲイカルチャーの中では「女装をしないゲイの中で女性的なゲイ」を指してのみオネエと呼んでいたし(三橋2009)、先に挙げたオネエ系タレントの中にはその話し方に特徴があると言えない人物も多い。
しかし、このように曖昧なイメージながらも世間は「そのような人々」がいることを認識しており、それが現在の「オネエ系タレント」に繋がっていると考えるのが自然だろう。つまり「オネエ系タレント」のとりわけ「オネエキャラ」というのは、オネエ言葉や女装文化などに関わる人々に対して日本人が漠然として持っていた共通の文脈の中から、テレビ映えするような要素を取り出し継承させ、その定義を曖昧にさせたまま、具体的な人物をそこにカテゴライズすることで発展した概念、であるといえる。
これが、オネエ系タレントとそうでないLGBTのタレントとの大きな差の一因といえるだろう。オネエ系タレント以外のLGBTはテレビ業界で活躍しにくいし、したとしてもそのセクシャリティに基づくことはほぼない(福井2016)と言われているが、それはオネエ系タレント以外のLGBTに対して日本人が特定の共通したイメージを持っていなかったからである。それゆえ、オネエ系タレント以外のLGBTのタレントが活躍したとしても、それを表す「キャラ」は生成されなかったし、それが再帰的に強化されていくこともなかったのだ。
3. 異人としてのオネエ
3-1. 批評するオネエ
前章では、オネエ系タレントがどのような人物であったかに注目していたが、今度はオネエ系タレントが何をしているかについて注目したい。ここにもテレビ業界はオネエ系タレントにある一定の役割を求めていることがわかる。
オネエ系タレントたちが登場する番組は数多く作られている。今であれば最も著名なのは、マツコ・デラックスが司会を務めるTBS系トークバラエティ番組『マツコの知らない世界』であろうか。これは、様々なジャンルのゲストが週替りで登場し、彼らが紹介するものをマツコ・デラックスが実際に体験、そしてそれに感想を述べるという番組だ。マツコ・デラックスの歯に衣着せぬ物言いが受け、人気を博している。
複数のオネエ系タレントが登場し、そのことを売りにした番組もあった。2006年から2009年に渡り放映された日本テレビ系バラエティ番組『超未来型カリスマSHOWおネエ★MANS!』(通称、おネエマンズ)だ。先程の表で名前を上げた中では、植松晃士や真島茂樹、IKKO、如月音流などがパネリストとして参加し、それぞれファッション、ショービズ、メイク、ITの「カリスマ」として登場、様々なお題についてオネエ系タレントたちが評価をするという番組で、2008年度の流行語大賞に「オネエマン(ズ)」がノミネートされる(ユーキャン2008)ほど注目を集めた。
その他にもオネエ系タレントが出演する番組は多数あるが、そのほとんどでオネエ系タレントたちは共通した役割を担っている。「批評する」役割だ。時にはファッション、時には恋愛、あるいはビジネスに至るまでオネエ系タレントは「遠慮のない」意見を述べる人物として、しばしばスタジオに登場する。なぜ、彼女たちはそのような批評者としての期待を集めるのだろう、逆になぜ視聴者や番組制作者は彼女たちの意見に「らしさ」を感じ高く評価するのだろうか。
3-2. オネエたちに期待される客観性
ニューハーフという言葉がある。こちらもなかなか定義が難しい言葉だが、初出の説としてあるのは、サザンオールスターズの桑田佳祐が「男と女のハーフだ」と大阪のショーパブのママに言った、という話だ(渡辺2010)。他にもオカマバーという単語がある通り、女装した(生物学的に男性の/あるいは男性として産まれた)ママが、カウンターに立ちバーで悩み事や相談を聞く、という構図は非常にありふれたものだ。何らかの「批評」を行い、それをある程度の信憑性をもって聞き手が受け取る、という意味で彼女らはオネエ系タレントとよく似ている。
なぜ我々が彼女らの意見をそのように扱うのかについての定説は今のところないが、大きく分けて二つの理由が考えられる。
まず一つは、「オネエ系タレントは人生経験が豊富であるから、それに基づく意見も一定の信憑性を持つ」というものだ。オネエ系タレントは、セクシャルマイノリティが多いことは間違いないし、いじめられたり、一人で深く悩んだ経験を持つタレントも多い(女性自身2015)。そのことから様々な困難に向き合い乗り越えてきた事を考えると、それらに対する対処法、つまり「困難の乗り越え方」に関して一定の知識なり意見があると考えるのは確かに妥当であろう。
だが、これだけではオネエ系タレントに求められる批評の役割の原因を十分に説明することはできない。なぜなら、先程の番組の例からも分かる通り、彼女らは「IT」「ビジネス」など多岐に渡るものについて批評し感想を言う、時にはニュース番組に出演して社会問題にも言及する(その時は「インテリなオネエ」や「オネエ映画評論家」などの称号をしばしば与えられる)。「人生経験」や「ファッション」ならば、その経験が豊富だからというのは頷けるが、これらに関してさえ彼女らの意見にある程度の信憑性が感じられるのを説明するのには先の理由だけでは足りないだろう。
そこでそれらを説明できる二つ目の理由を考えよう。それは「オネエ系タレントは異人であるから」というものだ。
3-3. 異人としてのオネエ
わたしたちは世界のなかで事物を認識したり区別したりするとき「わたしたち」と「かれら」という集団を考える。前者の、自分が所属して理解していると考えられる集団を内集団と呼ぶ(Bauman and May2001:72-73)。無論、その境界線は非常に曖昧で、個々人の思想や先入観によって大きく異なる。そして、それはある一つの特徴を持つ。
ある人物が同じ集団に所属する人物やあるいはその性質、文化に対して評価を行うとき、内集団バイアス、いわゆる「ひいき」が発生する(池田・唐沢・工藤・村本編2010)。自分と同じ集団に属する対象を高く評価することは、無駄な軋轢をうまないし、自己肯定感に繋がるし、その集団の境界線をさらに強固なものにできるからだ。また留意しておかなければならないのは、その評価が高い原因は無論「同じ集団に属しているから」ではなく、「その対象が優れているから」と考えられがちで、様々なステレオタイプや差別の一因にもなっているということだ。
この事は、明示される前からも我々はある程度感じていることだろう。そして、これに対する反動から、人々はできるだけ公平に物事を判断する場合、「客観的」に物事を見るということを重要視する。そして、それは同じ集団に属する人間が行うよりも、自分たちとは異質な外の人間――ここではオネエ系タレント――が行ったほうが、もっともらしく感じられるのだ。このように求められているオネエ系タレントの役割を「異人としてのオネエ」と呼ぶことにしよう。
3-4. 我々と違うからこそ評価されるオネエ
このように自分たちとは違う集団に所属する人物がテレビに登場して意見をいう、という構図は外国人コメンテーターが朝のニュース番組などでしばしば活躍していることからも分かる通り、テレビ業界では「ありがち」な手法のようだ。誤解を恐れずに言うなら、オネエ系タレントがテレビで何をしてほしいから呼ばれているか、というとそれは外国人コメンテーターと同じ理由によるものなのだ。すなわち「外からの公平な意見がほしいため」だ。
しかし、これは次のような重要な事実を意味する。つまり、テレビ業界、そしてそれが想定している視聴者は、オネエ系タレントを異人として位置づけている、ということだ。オネエ系タレントは、我々とは違う存在であるからこそ、公平な意見が期待されている。それに彼女らは外国人コメンテーターと違ってわざわざ日本に来て貰う必要もなければ、オネエキャラとして一定の人気あるいは知名度が保証されているのだ。
これは言うまでもなく、「LGBTの理解」などと言ったものとは正反対だと言えるだろう。テレビにオネエ系タレントたちが呼ばれて意見をいうのは、我々が彼女らを仲間だと受け入れているわけでは決してなく、むしろその逆の機序によるものなのだ。無論、これには「尊敬しているからこそ、その意見を妥当だと考えている」という反論がありえる。しかし、先に挙げたように、オネエ系タレントはその一人ひとりのセクシャリティや苦労といったものを参照されることはほとんどないが、それにも関わらず全員が尊敬され意見を尊重される、というのは無理があるように思える。また、「IT」や「ビジネス」「社会問題」の分野で彼女らが必ずしも尊敬されるという必然性もないだろう。
よって、メディアでの露出が増えた結果、人気を得て尊敬されることはあっても、その発端には「我々と違う」という意識があったから、と考えるのが妥当ではないか。
4. 終わりに
以上が、オネエ系タレントのその性質と期待から導かれる考察である。彼女らはテレビ業界に「オネエキャラ」であることと「異人」であることを期待されている。それは彼女らに独特な地位と人気を与えているが、見てきたように、必ずしも「テレビが多様性を受け入れているから」とは考えられない。
オネエ系タレント以外のLGBTがテレビ業界での活躍がしづらいのも、性別適合手術をしたKABA.ちゃんが「扱われづらい」というのも「オネエキャラ」という文脈を利用できないからであるし、彼女らの意見がしばしば「歯に衣着せぬ」と形容されるのはその異人性に起因する。
テレビ業界をはじめとしたマスメディアにおける、LGBTに対する差別意識というのは確かに少なくなりつつはあるが、「オネエ系タレントが出ている」のを理由にそれを主張するのは不適当であるし、逆説的にそれはテレビ業界にはまだまだ払拭されるべき差別意識が残存していることも示している。
そもそも、マスメディアは多数の人に短時間で多量の情報を提供する都合上、事象一つ一つを丁寧に検証せず、何らかのパターンに当てはめて考えがちである。その方が、情報の受信者の理解が容易である、というのは確かであるが、それは同時に多くの情報や多様性を削ぎ落としている。真にあるべきメディアとはそのような形ではなく、あるものをあるままに正確に伝え、差別に対してNOを突きつけられるようなものであるべきではないだろうか。最後に断っておきたいが、多くのオネエ系タレントの人々が活躍できているのは、本文であげた理由によるものだけではなく、むしろ本人たちの努力によるものが大きいし、彼女ら、あるいは彼ら一人ひとりの魅力や意見というものも多様で素晴らしいものが多い。もちろんその中には、LGBTに対する差別意識と戦っている、あるいは配慮している方々もたくさんいる。本文で述べたかったのは、そんなオネエ系タレントたちがテレビで十把一絡げにしかほとんど扱われないのは何故なのか、ということで、決して彼女ら、あるいは彼ら自身の良さを否定したいわけではない。
また、オネエ系タレント、あるいはメディアにおけるLGBTの扱いに関してはまだまだ考察の余地があるように思う。その変遷について調べることで、また違った事実を明らかにすることができるだろうし、これからどうすることで現代社会を変容させていけるか、というのも非常に重要な課題であるが、それらについては今後の研究に期待したい。
[文献]
- AbemaTIMES,2017,「りゅうちぇる、性的指向に葛藤した過去『男の子が好きな方が楽だった』」,AbemaTV,(2018年1月7日取得,https://abematimes.com/posts/2121066).
- Bauman,May,ThinkingSociologically,JohnWiley&SonsLtd.(=2017,奥井智之訳『社会学の考え方[第2版]』筑摩書房).
- J-CASTニュース,2007,「『女になろうと思ったこと一度もない』
- 美輪明宏、実は女性が大嫌いだった」,J-CAST,(2018年1月7日取得,https://www.jcast.com/2007/11/22013681.html).
- ORICON,2016,「KABA.ちゃん、8月に戸籍上で性別変更テレビ初告白で新しい名前を発表」,ORICONNEWS,(2018年1月7日取得,https://www.oricon.co.jp/news/2078879/).
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- 新城カズマ.2006,『ライトノベル「超」入門』ソフトバンククリエイティブ.
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- 東洋経済新報社CSRプロジェクトチーム,2016,『東洋経済CSRデータeBook2017ダイバーシティ推進編』(2016,東洋経済新報社),AmazonServicesInternational,Inc.,Kindle版.
- トピックニュース,2014,『マツコ・デラックスがオネエ芸能人の実態を暴露「IKKOさんは何もしないで女になろうとしている」』,livedoorNEWS,(2018年1月7日取得,http://news.livedoor.com/article/detail/9583289/).
- ナリナリドットコム,2017,『声優の三ツ矢雄二、ゲイをテレビ初告白』,livedoorNEWS,(2018年1月7日取得,http://news.livedoor.com/article/detail/12534803/).
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- 三橋順子,2009,「テレビの中の性的マイノリティ(特集考える—メディア)」『金曜日』17(22):22-23.
- ユーキャン,2008,『ユーキャン新語・流行語大賞』,(2018年1月7日取得,http://singo.jiyu.co.jp/old/index.html).
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- 渡辺周,2010,「ニューハーフ薩摩へ帰る」『朝日新聞』2010年9月16日夕刊:1.14
Emojiによるグローバル化
※本記事は@oz4point5が授業用に執筆したレポートの修正版です(評価が終了したようなので記事として公開します)
※CC-BY-SA 3.0とします
※pdf版は以下からダウンロードできます
Emojiによるグローバル化(匿名ver).pdf - Google ドライブ
1. はじめに
「Tofu on Fire」を知っているだろうか、これのことだ(図1)。これは、幼稚園などでよく使われるチューリップ型の名札からデザインされた絵文字なのだが、外国人ユーザにとっては長らく「それが何を表すのか分からない」絵文字であった。そして、この絵文字の元となった名札を日本で見つけ写真をSNSにアップロードした外国人ユーザの投稿に対し、この形を揶揄して付けられたコメントが「Tofu on Fire(火の中にある豆腐)」なのだ(ジェイ・キャスト 2017)。
このエピソードからも分かるように絵文字は日本の影響を強く受けながらも今や世界中で使用されつつある。2015年9月から2017年9月の2年間に世界で使われた絵文字は60億字をも超えるらしい(Emojipedia 2018)。本文では、絵文字のシステムが内包しているアーキテクチャ性に触れつつ、その公平性と危険性を読み解きたい。
2. アーキテクチャとしての文字コード
絵文字文化はそれ自体が興味深い歴史を持つが、それは省略して今の絵文字について考えよう。今日、TwitterやLINEを始めとして主にスマートフォンから入力される絵文字は、Unicodeという文字コードが2010年からサポートし始めたものを指す(Unicode Consortium 2010)。これを特に海外での呼称からEmojiと呼ぶことにしよう。
EmojiはUnicodeに含まれており、Unicodeとは文字コード、つまり文字に関する業界規格であるであるから、これをサポートしている企業(以下、ベンダと呼ぶ)が制作している製品では問題なく使用することが出来る。また、日本語を含めたアラビア語、中国語、韓国語などのマルチバイト文字と呼ばれる言語をコンピュータで表現するには実質的にUnicodeが業界標準として使用されてきた経緯も相まって、Emojiは現在販売されているほぼ全ての電子機器(特にスマートフォン)で扱うことが可能だ。
そのお陰もあってか、EmojiがUnicodeに入ってからまだ数年しか経っていないにも関わらず、世界中の人々はEmojiを多く使用しているし、技術系の人々はともかく、一般にスマートフォンを使用しSNSに投稿を行う人たちにとってEmojiはもはや特別な技術でもなんでもなく、最初からそこにある当たり前のものへと変貌を遂げている。
それは考えてみれば当然のことで、文字コードとはアーキテクチャであるからに他ならない。アーキテクチャとは、環境管理型権力とも呼ばれ、
-
任意の行為の可能性を「物理的」に封じてしまうため、ルールや価値観を被規制者の側に内面化させるプロセスを必要としない。
-
その規制(者)の存在を気づかせることなく、被規制者が「無意識」のうちに規制を働きかけることが可能。
の2つの特徴を持つシステムのことだ(濱野 2008 : 20)。文字コードは、設定された文字以外を表示させることを物理的に不可能にするし、私たちは普段はそのことに全く気づかない。濱野は様々なウェブサービスを指して、そのアーキテクチャ性を指摘していたが、その根底に最も大きなアーキテクチャとして実は文字コードが存在していたのだ。
EmojiはUnicodeであるから、これもアーキテクチャ性を持つ。Emojiは我々がテキストデータとして表現できる幅を大きく広げるが、それは同時に大きく制限されていて破ることは出来ない。そして、Emojiはたびたび改訂されるが、私たちはそれをどこの誰がいつ行うかについてほとんど知識を持たないし、すぐに慣れてしまう。
3. Emojiの持つ公平性
Emojiは公平でグローバルである。そもそものUnicodeが世界に存在する全ての文字を表示できる文字コードを目指していたこともあり、一度登録されたEmojiはすぐさま全世界で使用される。それに何と言っても一つ一つが絵なのだ。私たちは「サボテン」が英語で言うと何なのかアラビア語では何というのかを辞書で引かずとも、ただサボテンの絵文字(図2)を使えばいい、簡単な意思疎通程度ならEmojiだけで可能かもしれない。
これは、インターネットを更にグローバル・ヴィレッジへと変容させる素晴らしい進歩とも言える。絵というのは究極に世界共通的だし、それを理解するのに何らかの勉強が必要ということはない。まさに誰でも参加することが可能だ。
また、気づきにくい副作用もある。技術的な問題により英語だけを表示することを目的とした文字コードとUnicodeの互換性は極めて低く、多くのエンジニアは前者のソフトウェアを後者のために作り直すことを嫌ってきた。しかしながら、Emojiが人気になったことにより「Emojiを表示できないシステムは古い」という認識が共有され、結果として多くのシステムはUnicodeをサポートするようになってきている(植山 2017)。Unicodeがサポートされるという事は、結果として日本語やアラビア語などのマルチバイト文字が記述可能になるということで、どのような言語の話者でも自然に電子機器を使用できるようになるという事だ。これこそ、Emojiがもたらした究極のグローバリズムだろう。
4. Emojiの持つ危険性
だが、Emojiは危険性もはらんでいる。まず、グローバル化するということは、ローカルの文化が失われるという問題と不可分である。もうすでにEmojiはある文化を排斥しつつある、それは顔文字とアスキーアートだ。それらは可読性の問題と情報伝達に必要な容量の問題からEmojiに効率性で大きく劣るため、廃れるのは必然かもしれないが、そこには絵文字にはない文化差が存在した。
これも同じく文字コードによる問題ではあるのだが、日本では笑顔を意味する顔文字は「(^_^)」で海外では「:-)」であった。アスキーアートも日本と海外では表現されるものが大きく違ったし、その表現の幅を最大限活かそうと、アスキーアート専用のキャラクター*1が生み出されるなどしたが、Emojiではそのような事は起こり得ないだろう。Emojiの主導権を持っているのはユーザではなく、アーキテクチャを管理する誰か(実際にはUnicodeコンソーシアムとベンダたちだが)であり、何を表現できて何を表現できないかは、彼らが決定するのだ。
もう一つ大きな問題は規格を決めるUnicodeコンソーシアムが本当に「コンヴィヴィアリティ」であるか、という点だ。確かにUnicodeコンソーシアムは、Emojiの決定に関して企業の干渉を認めていないし、人種差別などのあらゆる差別が含まれないように配慮し続けている。だが、彼らは「そのEmojiが必要かどうか」の判定に多くの場合「どれだけインターネット上で注目されているか」という尺度を使用する(田所 2016)。
これはとても危険なことではないか。データ上の頻度というのは非常に公平ではあるが、そこに人間的な価値観は存在しない、あるのはただアルゴリズムによる選別だけだ。あまり使われないが大切な語というのも多くあるだろう、そしてそれらの多くはEmojiに搭載されないことで、人々から更に忘れられるということもあるのではないだろうか。
5. 終わりに
以上のようにEmojiはUnicodeという文字コードに搭載されているため、そのアーキテクチャ性を色濃く引き継いでいる。その性質からインターネット上のコミュニティのグローバル化に大きく貢献しているが、その裏でEmojiは我々の文化を一瞬にして変容させてしまうほどの危険性も孕んでいる。非常に意識されづらいレイヤーの技術ではあるが、そうであるからこそ慎重な議論の上で扱われるべき技術である。
私はEmojiが好きだ。だからこそ、この文章を書いた。SNSに文章を投稿しようとする時にEmojiの一覧を見ていると「これがほしいな」「あれがほしいな」となることがあり、最終的には「違う文章を投稿しよう」となることもある、そしてそれは紛れもなく私がEmojiというアーキテクチャに制御されて思考を変えた瞬間なのだ。
[文献]
-
Emojipedia, 2018, ``Emojipedia,'' (2018年1月28日取得, https://emojipedia.org/).
-
――――, 2018, ``Emoji Sentiment Analysis 2015-2017,'' (2018年1月28日取得, https://blog.emojipedia.org/emoji-sentiment-analysis-2015-2017/).
-
Unicode Consortium, 2010, ``Components of The Unicode Standard Version 6.0.0,'' The Unicode Standard, (2018年1月28日取得, http://www.unicode.org/versions/components-6.0.0.html).
-
植山類, 2017, 「絵文字がある種のUnicodeバグを世界から一掃しつつある件について」, note, (2018年1月29日取得, https://note.mu/ruiu/n/nc9d93a45c2ec)
-
ジェイ・キャスト, 2017, 「チューリップ型の名札は、なぜ海外で「燃える豆腐」と呼ばれるようになったのか」, Jタウンネット東京都, (2018年1月28日取得, http://j-town.net/tokyo/column/allprefcolumn/242578.html).
-
田所駿佑, 2016, 「絵文字の提案について、Unicodeコンソーシアム理事長に聞いてきた」, Qiita, (2018年1月29日取得, https://qiita.com/todokr/items/a22e31e905667493a570).
社会学屋のためのLaTeXのススメ
(この記事は2018年2月9日に執筆されました)
(大学生向けのLaTeX雛形ファイルもあるよ!)
(2018年2月15日 - 雛形を更新・修正)
1. LaTeXとは何か
LaTeXというのは、理系のやつらが使ってる、なんか難しいけど数式とか綺麗にかけるアプリです。理系にだけ使わせておくのはもったいないので、社会学屋でも使いましょう。
2. この記事の対象
3. やり方
3-1. TeXLiveをインストールする
以下のアドレスからWindows用のTeXLiveをダウンロードして実行します。出て来る画面には、基本「Next」「次へ」「インストール」「導入」などポジティブな言葉を押します。
http://mirror.ctan.org/systems/texlive/tlnet/install-tl-windows.exe
(元サイト:http://mirror.ctan.org/systems/texlive/tlnet/install-tl-windows.exe)
(詳細な日本語の説明→TeX Live/Windows - TeX Wiki)
インストールの終了には環境にもよりますが数十分かかります。
3-2. TeXWorksを起動してみる
TeXWorks(LaTeXを作るソフト。Wordみたいなやつ)を試しに起動してみましょう。これは現在のTeXLiveには標準でインクルードされており、だいたい(環境にもよりますが)、
C:\texlive\2017\tlpkg\texworks
あたりにexeファイルがあると思います。ショートカットをデスクトップに作るなりしておきましょう。
TeXWorksは上画像のように、左にtexの文法に則したテキストを書いて緑の実行ボタンを押すと、ウィーンガリガリと色んなファイルを作成して右のようなpdfを出力してくれます。綺麗!(もちろん、出力されたpdfは他のビューワで見ることが出来ます)
とか適当にうって実行して出来るか試してみましょう。
以下、注意点です。
3-3. TeXの文法を覚える
LaTeXはいわゆるマークアップ言語に近く、HTMLをやったことのある人ならばとっつきやすいと思います。そうでなくても、1日~2日あればなれると思います。自分の分野に応じてよく使う記法を覚えましょう。
文法のリファレンスサイトとしては、以下が有名です。
ここを一周して「ふーん、こんな風にかけるんだ」とすればいいと思いますが、実は罠があって、今回の最新の環境ではこのサイトのコマンドだとエラーを吐くものがあります。たとえば、
- {\bf このサイトの記法} → \textbf{最新の記法}
その為、先のサイトでどういうコマンドがあるか覚えたら、その後はこちらのサイトを使用したほうがよいでしょう。それかgoogleで「LaTeX コマンド名」で調べましょう。どちらにせよ、文法の変化があることは留意すべきです。
4. 付録
4-1. レポートの体裁について
大学生なりたての諸兄はレポートについて、どう書いたらいいか分からないというのがあります。基本的には、その分野の学会の学会誌の書式要件に従えばよいのですが、一般教養のクラスで要求されるレポートについては、ある程度見た目が整っていれば他の分野の学会の書式でもいいでしょう。というわけで社会学会の一般的な書式ほかです。
引用文献の書き方なども懇切丁寧に教えてくれています。プリントアウトして使うのが最も使いやすいかと思います。くれぐれもgoogleで「引用文献 書き方」でヒットした適当なサイトの書式に従ってはなりません。これを使いましょう。
あと誰も教えてくれなくて一回恥を書いたことがあるので念のために言っておきますが、
- レポートには必ずページ番号をうちましょう
あとこんなこと言うのも憚られるのですが、知らなくて恥を書いている人をたまに見かけていたたまれなくなるので言っておきますが、
- Wikipediaを参考文献にしていいのは、そのクラスの先生が「Wikipediaを参考文献にしていいよ」とわざわざ言ったときのみです。
- Twitterのアンケートをレポートに(基本)載せてはいけません。
- 名前を書き忘れるな(表紙があっても基本は別に書け)。
- 京大の一般教養のレポートはレポート用紙の上辺二箇所にホチキスだ。
4-2. LaTeX雛形
texを使用して文書(pdf)を作成する場合、自分なりの雛形があれば楽ですが、結構文字組みに苦労したので、自分が先の社会学会の要件に従って(ただし表紙をつける必要がある場合は適宜そうしてください)作成した雛形を置いておきます。各自DLして使って下さい、再配布も構いません。
下に生でコードを置いておくので、それを使ってもいいし、アップローダにあげたのをダウンロードして使ってもいいです。
\documentclass[a4paper,10.5pt]{jarticle}
\usepackage[truedimen,top=25truemm,bottom=30truemm,hmargin=25truemm]{geometry}
\usepackage{calc}
\usepackage[dvipdfmx]{graphicx}
\usepackage{arevmath}
\usepackage{pxrubrica}
\begin{document}
%
% 表紙を必要としないもの用のTeX雛形(作成:@oz4point5)
% おおむね社会学会の論文用の書式に従っている
%
% 文字組他に関しては以下のウェブページを参考にした
% https://texwiki.texjp.org/?geometry
%
\makeatletter
\newcount\@chars\newcount\@lines
\@chars=40 % 1行の文字数
\@lines=40 % 1ページの行数
\newdimen\@kanjiskip
\@kanjiskip=\dimexpr(\textwidth-1zw*\@chars)/\numexpr\@chars-1
\newdimen\@@kanjiskip
\@@kanjiskip=\dimexpr\@kanjiskip/10
\setlength{\@tempdima}{1pt*\ratio{\dimexpr\textheight/\@lines}{\baselineskip}}
\renewcommand{\baselinestretch}{\strip@pt\@tempdima}\selectfont
\kanjiskip=\@kanjiskip plus \@@kanjiskip minus \@@kanjiskip
\parindent=\dimexpr 1zw+2truept
\parindent=\dimexpr\parindent+\@kanjiskip
\makeatother
%
% タイトルなど
%
\title{論文タイトルの全文}
\author{名前\\京都大学総合人間学部4回\\文字数}
\date{}
\maketitle
\tableofcontents
%
% 以下本文
%
\part{part1}
\section{section01}
和文は原則として全角を用いる。数字のみ半角。句読点は全角の「.」と全角の「,」を使うことにする。
句点は「。」で,読点は「、」でうっておいて,原稿の完成時に全角の「.」と全角の「,」に一括変換すると間違いがない.
\section{section02}
%
% 脚注
%
\section*{[注]}
\begin{enumerate}
\item 脚注を記述する
\end{enumerate}
%
% 文献リスト
%
\section*{[文献]}
\begin{itemize}
\item 参考文献を記述する
\end{itemize}
\end{document}
「好き」の社会学
1. はじめに
若さ 若さってなんだ ふりむかないことさ
愛ってなんだ ためらわないことさ
「わたし、『好き』ってどういうことか分からないんだよね」という言葉を聞いたことある諸氏はいるだろうか、無論、沢山いるに違いない。民明リサーチ社が行った調査によると、女性の実に7割が「好きってなんだろう」と思い、そしてうち4割が「好きってわからないんだよね」と発言し、うち2割が「付き合ってみたら『好き』がなにかわかると思って付き合ってみたけど、やっぱりわからないから別れよ」とパートナーを振ったことがあるという。
女性に限ったのは、何も女性を批判しようという意図があったわけではなく、男性はアセクシャルを除いてそのほとんどが「勃起したら多分『好き』ってことなんだろう」なりそれに類似した落とし所を見つけられるが、女性はそうではない、という生物学的な話によるものだ。
しかし、これは由々しき事態である。科学主義全盛の世の中において、こうも初歩的だろう概念が理解されないまま、そして人々が問うているのに明確な答えがアカデミアから出ないのは何故か。我々の税金をどこに投入しているのか。責任者をよぼうにも出てきそうにないので、代わりに私が世の子女の質問に答えてあげることにしよう。
「わたし、『好き』ってどういうことか分からないんだよね」
「じゃあ、この記事を見ればいいよ」
上記が理想形である。というわけで目次を提示しよう。
2.「好き」とは何か
初めに断っておかなければならないのは、この記事では「好き」だの「愛」だの「恋」だのをひっくるめて「好き」と呼ぶ点である。この辺りは三省堂あたりの辞書でも引けば微妙な機微の違いが出るのだろうが、そもそも一つも意味が明確に理解されていないのに、そこを語るのは後でいいだろう。
実際の所、この感情は何か、というものに明確に学術的な名前がついているかというと、2018年現在そうではないのだ。実際に運用する場合はTPOに合わせて名付ければよいだろうが、ここではその「よく分からない甘酸っぱい気持ち」をまとめて「好き like」としておこう。
2-1. 社会心理学的「好き」
多くの人間がアカデミックに人の心について知ろうと思う時に初めに門を叩くのは心理学だ。心の理(ことわり)の学問というだけあって、なかなか心に詳しそうなイメージがする。心理学自体については個人的には全く好きではないが、あまり言うと怒られそうなので、それ自体には触れず、心理学で扱われている「好き」について見ていこう。
心理学の中で有名な恋愛の研究といえば、Bowlbyの愛着スタイル attachment styleと、Sternbergの愛の三角形モデル triangular theory of loveであろうか(池田, 唐沢, 工藤, 村本 2010 : 174 - 8)。前者は、どちらかというと恋愛中あるいはそれが崩れている時にどう行動するか、というのを類型したもので、「好き」が何かという話とは若干ずれているので、今回は名前だけにしておこう。さて、そして後者の名前からして胡散臭いこの理論は、なんと「愛」の構成要素を三種類に分けてしまったという。それは以下の通り。
- 親密性 intimacy
- 熱情 passion
- コミットメント commitment
そして、この三種類が組み合わさって色んな愛が産まれるんだけれど、全てがうまくバランスが取れているとそれは完結した愛 consummate loveになる――(Sternberg 1997)。そんなこと有ります? 冷静に考えて、この3つが独立変数だと、思います? 僕は思いません。
まあ、それはともかく折角言っているので、要素の意味ぐらいは説明しましょう。Wikipediaの日本語にも項目があるのですが、クソ記事なのでせめて英語版を見ましょうね(2018年2月現在)
Passion: Passion can be associated with either physical arousal or emotional stimulation. Passion is defined in three ways: (1) A strong feeling of enthusiasm or excitement for something or about doing something. (2) A strong feeling ( such as anger ) that causes people to act in a dangerous way. (3) strong sexual or romantic feeling for someone.
熱情 passionは、性的興奮や情動的刺激と結びつける事ができる。熱情は以下の3つのように定義できる。
- 何か、あるいは何かを行うことに対する熱狂や興奮といった強い感情。
- 危険な行動を人々に起こさせる(例えば怒りと言った)強い感情
- 誰かに対する強い性的あるいはロマンチックな感情
Intimacy: Intimacy is described as the feelings of closeness and attachment to one another. This tends to strengthen the tight bond that is shared between those two individuals. Additionally, having a sense of intimacy helps create the feeling to being at ease with one another, in the sense that the two parties are mutual in their feelings.
親密性 intimacyは、対象との(心理的な)距離の近さや、愛着の感情として説明できる。しばしば二人の当事者の間に共有される「固い絆」を強化する傾向がある。加えて、親密性を抱くことは、もう一人の当事者が二人の間で感情を同じくするのを簡単にする助けにもなりうる。
Commitment: Unlike the other two blocks, commitment involves a conscious decision to stick with one another. The decision to remain committed is mainly determined by the level of satisfaction that a partner derives from the relationship. There are three ways to define commitment: (1) A promise to do or give something. (2) A promise to be loyal to someone or something. (3) the attitude of someone who works very hard to do or support something.
コミットメント Commitmentは、他の二つの要素と違い、もう一人の当事者にも同じような意識的決定の必要を伴う。コミットメントで有り続けようという決定は主に二人の関係性からパートナーが感じられる満足度によって左右される。コミットメントには以下の3つの定義がある。
- 何かをしたり何かをあげるという約束
- 誰かや何かに対して忠実であろいうという約束
- 何かをしたり支えたりするために勤勉であるという態度
というように、「熱情・親密性・コミットメント」「熱情・親密性・コミットメント」って感じで、これらが愛を構成し、そしてバランスよく保たれれば、良い愛であるそうです。
はっきりと否定できるほど間違ってるとも言えないけど、なんとなくそうっぽい、というだけであまりしっくりこない、というか。「偉い学者先生がいうなら、まあそうなのかもしれなけど、証明とかできませんよねコレ」みたいな。シュレーディンガー方程式か、お前は。
この記事は「好き」って何か、を自分の中にしっくりする定義を見つけようという考えのもとに書かれているので、もう少し、他の学問分野に行って定義を探してくることにしましょう。というわけで、編集部一行はインターネッツの女性向けバイラルメディアの記事に飛んだ。
2-2. 通俗心理学的「好き」
心理学者には悩みのタネがあります。コンビニ本とか変なニュースサイトとか、テレビで紹介される「心理学」と銘打っておいて何の根拠も論文も持たない主張たち。例えば、「血液型で心理がわかる」とか「胎児だったころの記憶が」とか、そういうもの。これらを纏めて通俗心理学 popular psychologyと呼び、心理学者たちは普段は無視しているのですが、何かの飲み会で「心理学ってこういうのでしょ」とか言ってdaigoとか出されるたびに辟易しているのです。
しかしながら、もしかすると、こういうとこにこそ真理は落ちているのかもしれない。アカデミズムは嘘と権力に塗れている、真の学問は在野にこそあるのだ!
これが心理カウンセラー(?)の教える「本当に好きな人を見極める方法」の一覧だ。
- ずっと一緒にいたいと思えるかどうか
- その人がいなくなったときどう感じるか
- 一緒にいて居心地がいいかどうか
- 一緒にいて楽しいかどうか
- 相手の嫌な面を見ても嫌いになったりしないかどうか
- 会いたいと思うかどうか
- 相手と一旦距離を置く
(小日向 2017)
このお姉さんは心理カウンセラーらしいし、それぞれの項目の下に実在するかわからない人物の台詞もついていたから、多分正しいぞ。ちなみに、心理カウンセラーっていうのは「法律家」ぐらいフワッとした括りで、特にそういう資格があったりするわけじゃないけど、それをわざわざ名乗るのはお兄さんにはよく分からないぞ。
この7つ、よくよくみると全部「一緒にいたいと思えるかどうか」にまとめられる気がする。つまり、「一緒にいたい」=「好き」なのだろうか。これもさっきと同じく否定できないけれども。まあ、これぐらいラフな考えの方が悩みも少ないし実用的なのかもしれない。自分の感情を正確に把握するのは難しいので「一緒にいたいなあ」と思ったら「あっ、この人の好きなんだ」と思うぐらいのほうが、悩まずにすむ、というのは確かだろう。
2-3. 行動科学から事実論的アプローチへ
と、「好き」とは何かを心理学的に見てきたが、ここで僕は思いました。
「人の感情ってクオリアと同じでそれ自体を測定することはできないし定義できないんじゃないの?」
と。「赤とは何か」を定義することはできない(できても赤い物の列挙になる)ように、何らかの心理状態自体を定義することはできないのです。
しかしながら、我々は「好き」の定義を知りたい。となればどうするか、方法は一つに思えます。それは「好きになったらどうなるのか」という類型あるいはメカニズムを知ること。これならば先程よりは幾分科学的でしょう。
余談ですが、このように一人ひとりの考えよりも、確固たる事実に基づいた研究のほうが有意味なのではないか、というパラダイムシフトは政治学でも最近(1950年代~)おきました。行動科学政治学から制度論的アプローチへ、と言うやつです。
この記事でも同じ戦略を取りましょう、「好き」とは何か、「好き」になったらどうなるのか、それを知るため、一行は一路、神経心理学に飛んだ。
2-4. 神経心理学的「好き」
神経心理学とは、聞きなれない人には聞き慣れない単語かと思います。「脳科学」のほうが通りがいいかもしれません。神経心理学 neuropsychologyとは、その名の通り、脳の神経の状態と人間の心理の状態を調べるのがメインの学問です。「おお、それなら感情に関する研究がたくさんあるのでは?」と思われるかもしれませんが、あることにはあるのですが、神経心理学のメインはどちらかというと、ここの脳の領域が壊れると文字を読むのが困難になるから、この脳領域は文字を読むのを司っている(高次脳機能障害 higher brain dysfunction)とか、動物の画像を見せると脳のこの部分の血流が活発になるので画像処理はここでやるんだ(認知神経科学 cognitive neuroscience)、じゃあ逆に脳の血流状態から何を見ているか読み取れるのでは(脳情報デコーディング brain decoding)なんかが盛り上がっていて、今はあまり主流じゃないんですね。というのも、先の理由と同じく「好き」とかそういう感情そのものの定義が難しくて、という話。
神経心理学自体の話は置いておいて、ひとまずそこで「好き」ということを調べるのに知っておくべき概念が一つあります。それは「情動」です。
情動 (英)emotion (独)Gefuehl
感覚刺激への評価に基づく生理反応、行動反応、主観的情動体験から成る短期的反応のこと。中長期的にゆるやかに持続する強度の弱い気分(mood)とは区別される。情動は、齧歯類から共通する怒り・恐怖・不安から、霊長類に特徴的な高次の社会的感情までの多岐に渡り、思考や推論といった高次の認知過程にも影響しうる。情動の基盤となる神経回路は、扁桃体や視床下部をはじめ、島、腹内側前頭前野などの脳領域、および上向系の伝達経路より脳に入力される身体情報との関わりが注目されている。
(野村 2013)
情動は、脳科学的な話だとよく話題にあがる概念ですね。「情動が先か情動が後か(悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのか)」というのも未だに解決していない大問題の一つです。「感情」といった曖昧な言葉ではなく、「情動」は確固たる定義がある学術用語なので、議論の際はよく使われます。ちなみに気分 moodの研究はそんなに盛り上がってません、長期的な反応は観測に時間がかかるし、情動ほど強くデータに現れないからです。
さて、では!「好き」という感情はどの情動に対応して、どういう部分の脳の活動が活発になるんでしょうか!
……実はあんまりはっきりしてないんですよ。だいたい、感情をどう分けるかの時点で「6種類だ」(Schlosberg)とか「いや基本感情と微妙感情と背景感情があって」(Damasio)とか「感情っていうのは、心理的な全経験から表象性の心理仮定(思考・概念・言語性表象・視覚性表象・聴覚性表象・体性感覚性表象・運動覚性表象・嗅覚性表象・味覚性表象などが作り上げる知覚表象複合)を引いたもの」(山鳥)とか、色々、迷走してて。バシッとした定義はないです(2018年現在)。「なんて不甲斐ないんだ」と思ったそこの貴方は、今すぐこころの未来研究センターに行って研究だ!
というわけで、「好きになると脳のこの部分が活性化する」という方向からのアプローチは失敗におわるわけです、というと神経心理学に申し訳なさそうなので、余談を2つします。
1つ目、Beauty-is-Good Streotypeとそれにまつわる研究。Beauty-is-Good Streotypeというのは「魅力的な顔をもつ人物は、そうでない人物よりも、性格的に良い人物であると判断されるという反応バイアス」です。「あばたもえくぼ」という奴で、好きな人がやってることには判断が甘くなる、という(逆にいえば、判断が甘くなれば、「好き」って事なんじゃないかな)。研究によると、実際そういう傾向はあるらしく、また、顔の魅力の向上+「良い」印象があれば、眼窩前頭皮質(報酬系の1つ)の活動が活発化し、顔の魅力の低下+「悪い」印象があれば、島皮質(「痛み」に関係)の活動が活発化するそうです(Tsukiura and Cabeza 2011)。おお、具体的な脳の名前の場所が上がりましたよ、皆さん。しかし、好きと嫌いで反応する場所が違うことを見ると、「好き」というのは複合的で高次な脳の働きで、「脳のある場所が活発=好き」という定義は難しそうですね……。まあ「※ただしイケメンに限る」というのは科学的にも存在するということで。世知辛いのじゃー。
2つ目、さっき情動の定義を引用した脳科学辞典の宣伝です。Wikiなんですが、研究者の査読が入ったものしか載らないし、執筆しているのも研究者のグループなので非常に信頼できる良いウェブサイトです。単純に「脳科学」でぐぐると、どうしても「脳にいいんですよ~」の人とか、仮想通貨とかアフィ界隈と親しい漢字三文字の読みづらい人とか、そういうのが出てきてしまうので、脳について勉強したい学生はこのwikiを参照するのがいいかと思います。で、気になったら参考文献を読むなり借りるなり。おすすめ。
2-5. 社会学的「好き」
やって来ました、我らが社会学。タイトルにもなってるのに登場が遅いですね。今更ですがタイトルに深い意味はありません。「○○の社会学」って書くと社会学っぽいのでそうしてるだけです、要するに社会学内輪ネタ。
さて、脳科学的なアプローチに敗れたならば、もう少し視点を引いて社会的な、行為主体と行為主体の関係性でもって「好き」を捉えましょう、というわけで社会学です。社会学で「好き」と言えば語らねばならない人が一人いますね、それを見ましょう。
ギデンズは、両当事者が協力関係を維持しようとする感情を記述するために「コンフルエント・ラヴ confluent love」という用語を、そして、その基礎の上に築かれる協力関係を表現するために「純粋な関係 pure relationship」という用語を提示した。コンフルエント・ラブは、単純に「ある瞬間、両当事者が相互に愛し合い、相手に惹きつけられ、相手と一緒にいたいと願うこと」を指す。
(Bauman and May 2001 = 2016 : 210-1)
Anthony Giddensはイギリスの社会学者。1938年生まれで、まだご存命です(2018年現在)。「一緒にいたい(生存したい)と思い、そしてその生存と一緒にいるために協力する関係」こそが「好き」の純粋な部分。顔が良いとか、肉体的関係とか、経済的利益とか、そういうのを廃した純粋な愛っていうのはそこにあるんですね、はえー。そしてこの概念には重要な点が一つあり、それは両当事者が「自由意志」でこの行動を取れることです(やめようと思えば片方の意志でやめられる)。それゆえ、不安定で曖昧な状態に恋愛は常にさらされるとギデンズせんせーはおっしゃってらっしゃる。っぽいですね。他の人を見てみましょう。
ルーマンはわたしたちが激しい愛の欲求をもつ――愛し、愛されることを願う――ことと関連付けて、自己アイデンティティの探求を問題にした。(中略)「愛される」ことはまた、「理解される」ことを意味する。「わたしのことを分かってほしい!」と言い、あるいは、煩悶しつつ「わたしのことが分かっているの? 本当に分かっているの?」と聞くときと同じ意味で「理解される」ことがそれである。
(Bauman and May 2001 = 2016 : 186-7)
ここでいうルーマンとはドイツの社会学者Niklas Luhmann(1927-1998)のことです。彼は「好き」というより「好かれる」ことをアイデンティティと結びつけていますね。つまり、「好き」というのは「私はあなたを、あなたであるがゆえに(無条件に)その存在を承認する」ということでしょうか。アイデンティティは常に揺れ動き、自らの資産や社会的地位といったものに基づく他者からの承認は非常に脆弱であるため、人々は無条件の承認を求めます。子どもの時はそれは多くが母親から与えられるのですが、それを「他のだれか」に求める、それが恋愛関係でしょうか。ラカンっぽいですね。
「でもそれって承認欲求の話じゃん、本当の愛ってそんなもんじゃなくね」という人のためにもう一人紹介しておきましょう。
ボードリヤールは、あるインタビューで、愛のようなものが存在するかどうかを問われて、こう応じた。[愛をめぐる心的葛藤が無意識のうちに]「行動化 acting-out」することはあっても、「愛について語るべきことはそう多くはない」。ただし、それが真実であったにしても、かれの分析に因って、[愛の問題が解消するわけではなく]相互の愛情や相手の愛情の確証を求める人々はいっそうその重荷を背負い込むだけである。というのも、[市場を通して供給される]愛の代替物を前にして、人々は一歩退いて、かれらが「本当の愛」と思うものを求めるからである。
(Bauman and May 2001 = 2016 : 194-5)
「本当に好き」とかそういうものはないんだ。人々がそう思ったり、何らかの行動をそれでしたとしても、それはそういう「行動化 acting-out」があるだけで、「本当に好きとは何かを追い求めるのは徒労」なのだ――。あ、ボードリヤールはポストモダンの王、フランスの哲学者Jean Baudrillardのことです。
2-6. ジェンダー的「好き」
そんな!「好き」の定義を知ろうと思って色々読んでいるのに、徒労だったなんて――。だが待って欲しい。本当にそうだろうか。最近はジェンダー研究が流行っている。テレビに出たりツイッターでなんか日がな喋っている彼女ら/彼らならば、もしかすれば答えを既に知っているのではないか。一行はジェンダー(ジェンダー研究も社会学の一分野ですけれど)に飛んだ。
ロマンティックラブ・イデオロギー romantic love ideologyとは、「一生に一度の相手と恋に落ち、結婚し、子どもを産み育てる」という物語であり、愛と性と生殖が、結婚を経由することによって一体化したものです。
(中略)
日本におけるロマンティックラブ・イデオロギーの始まりは、作家の北村透谷であると考えられています。北村は『厭世詩家と女性』において、「恋愛は人生の秘鑰なり、恋愛ありて後人生あり、恋愛を抽き去りたらむには人生何の色味やあらむ」、つまり恋愛は人生の秘密の鍵であり、恋愛があって人生があり、恋愛がなければ人生に何の面白味があるだろう、と書いています。
(中略)
前近代における性愛の典型は、江戸の遊郭にあると考えられ、近代の「恋愛」とは異なる「好色」が行われ、それが「いき」であると考えられていました。ところが明治20年代中ごろに、英語のloveの翻訳語として「恋愛」という言葉が発明され、広まっていくのと同時に、「人格」という概念も翻訳を通じて確立されていきました。恋愛は「近代的自我」の成立と、深い関係をもっているのです。
ところが北村自身は「近代的自我」に基づく理想の恋愛と、現実の結婚がはらむ矛盾に耐えきれないかのように、自殺してしまいます。考えてみれば、「個人」として生きていくことと、1人の相手を一生愛し続けると近い、自分の感情をコントロールし続け、相手の感情に反応するかたちで自分の人格を形成していくことは、論理的には正反対といっていいものです。
(千田, 中西, 青山 2013 : 39- 40)
少し長く引用してしまいました。この本ではこの後、家父長制の批判に続いていき「恋愛」の話は終わるのでとりあえずここまで。つまり、ロマンティックラブ・イデオロギーとその「無理さ」の存在は以下のことを示唆しています。「好き(恋愛)には社会的に理想なり共通の意味があるように思われるが、それらは社会的に作り上げられた幻想にすぎず、実際は人それぞれである」と。そ、その通りとは思うんですけども、まって、じゃあ「好き」ってそもそも一体うごご……。私のこの気持ちは?あの人の気持ちと一致していないの?みんな人それぞれ違う人格や考えがあるのは分かるけれど、この私の甘酸っぱい気持ちは……「好き」ってことなんじゃあないの……?
3. さいごに
3-1. 脳をチューニングせよ
「学問の馬鹿、もう知らないっ――『好き』って何なのよ!何がひとそれぞれよ!教えてよ!私のこの感情は何?あの人は私のことをどう思っているの?何が社会学よ、何がジェンダーよ、何が勝部元気よ、何が上野千鶴子よ、もう嫌になっちゃう!」
僕は気づけば夜の街を走り回っていた。三条の裏路地は真冬だというのにある程度の活気があり、怪しげな店の看板や、サラリーマンと女子高生の取り合わせなどが、世も末な雰囲気を漂わせながら僕の周りを取り囲んでいた。
ドッシーン! 僕はジャケットを来た大柄の男性にぶつかる。
「いったーい!何やってんのよ!」
「お嬢ちゃん、一人かい?いいものがあるんだ」
そういうと男は懐から、小さな袋を取り出して私に見せた。
MDMA(エクスタシー)
19世紀末、覚醒剤から合成された。幻覚誘発剤としてはパワー低いが、多幸感や自我意識の強調に特徴。80年代に流行、現在でもロンドンのクラブ・キッズに人気。
(青山 2001 : 83)
60年代前半、かのティモシー・リアリーは『プレイボーイ』誌のインタビューに応じ、こう述べている。「性的関係の深まりと性的エクスタシーの上昇が、LSDブームの主な原因である」。(中略)セックスするか否かは本人の意志次第であって、ヘロインよろしく、たゆたうような酩酊感にどっぷり浸っていたい向きは、したくもないセックスを無理にする必要はない。しょせんセックスなんていうものは、ドラッグがもたらす”めくるめく官能世界”を知らぬ庶民の娯楽にすぎないのだから。
(青山 2001 :134)
エム(MDMA)を一回やったことがあるんだけど、目の前の相手のことが好きで好きで仕方がなくなるのね。「好き」「好き」っていいながらセックスして、その間も相手のことがずっと「好き」でたまらなくて、ずっと一緒にいたい、解けてしまいたい、これが「愛」なんだ、ってなるの。どんなに相手が不細工だったとしても。
(知人談)
セックスしたい、というのが「好き」ということなのか。こいつの遺伝子を自己複製したいと思えば「好き」なのか。それは社会によって決められた幻想にすぎないのか、こういうことを考えるのは徒労なのか。
街をゆく人々は、そんなことを悩んでいない振りをして、仕事をしたりセックスをしたり家庭をもったりしている。こんなことを悩んでいるのは僕だけなのか、それとも――ブツン。
テレビの音を切ったとき、あたしはナンバー382のムードだった。ダイヤルしたばかりだったの。だから、その空虚さを頭で認識はしても、心は感じなかった。うちがペンフィールド情調(ムード)オルガンを買える身分なのはありがたい――最初の反応はそれだったわ。でも、そのあとで、それがどんなに不健康なことであるかに気づいたの。このビルだけじゃなく、あらゆる場所での生命の不在を感じ取りながら、それに対してなにも反応しないことが――わかる? あなたにはわからないでしょうね。でも、むかしは、そういう鈍感さが精神病のひとつの症候と考えられていたのよ。”適切な情動の欠落”という名で。
(Dick 1968 = 1977 : 10)
3-2. 政治学的「好き」
結局のところ、学問なり文学なりが、「好き」ということに人類共通の定義を与えているようには思えない。しかしながら、政治のシステムは、ある程度、「人が人を好きになり」「家庭を作り」「子どもを産む」ことを前提にして動いている。もっとも根底にある理論が理解されないまま、その上に様々なものが積み重なっているという状況は、数学や物理など多くの学術的分野で見られるが、政治もまた然りということか。
「少子化」が声高に叫ばれているし、それとは反対に「恋愛の自由」ということも叫ばれている。しかしながら、そこでそもそも「好き」とか「恋」っていうのは何なのかというのは、「みんな分かっているでしょ?」と適当に流されているきらいがある。
しかしながら、私が思うに、根底の定義が曖昧で未定義であるならが、そこから演繹されている諸理論や諸倫理というのは無意味なものにすぎないと思う。論理を空転させる元気とリソースがあるのならば、もう少しその根底にある「好き」というものを真剣に捉え直すことが――恥ずかしがらずに――必要なのではないか、と私は考えた。だが、そんなものに答えはないのかもしれない。
つまり私は、「好き」の問題を本質的な点において最終的に解決したと考えています。そして、語ることができないことについては、沈黙するしかない。
Ich bin also der Meinung, die Probleme im Wesentlichen endgueltig geloest zu haben, und wovon man nicht reden kann, darueber muss man schweigen.
3-3. 経済学的「好き」
「好き」に関することをある程度、集めてみたつもりではあるので、一応、「恋愛工学」にも触れておきましょう。あれは「モテる=多くの異性とセックスできる」と定義して、とにかく倫理観もなにもかもかなぐりすてて、その目標の為に邁進する一連のテクニックですが、つまるところ著者は「好き=セックス」と考えているところがあるのでしょう(工学徒の方、違っていたらお便り下さい)。
あれがどのような論理でどういう問題点があるのか、というのは多くの他の文献があるでしょうから、それに譲るとしますが、恋愛をそのように捉えるとか、あるいは恋愛をゲーム理論的に捉えるとした場合に、「好き」あるいは「恋愛」に対してある種具体的なものを求める傾向があります。
それはもちろん、そうでなくては勝ち負けを数値で測れず戦略も立てれないという要請によるのでしょうが、私個人的にはあまり「好き」な考えではないです。というのも、人間の複雑な「好き」という感情が一つや二つのパラメータで測定されてほしくない、という思いからですね。
しかしながら、一つ付け足して置くとすれば、「好き」にそのような具体的な意味を付与するのは、本人にとってはある程度有用なことのように思います。具体的な定義さえあれば、このように長文を書くことになる羽目になりませんし、自分が次にしなければいけないことも明白です。「使命感」のある人生は「悩み」がないですからね。ジョジョだ。
3-4. なんだかんだで側にいてくれてるあなたが「好き」
話がとっちらかりました。まとめましょう。「好き」というのは何か、という単純な問いから様々な分野を横断してその定義を探ろうとしましたが、画一的なものは見つかりませんでした。どうも、
- 一緒にいたいと思う気持ち
- 相手を承認してあげたいと思う気持ち
あたりは共通して「好き」という名前が与えられているようですが、それは社会的に作られた幻想かもしれないし、意味を探ること自体徒労なのかもしれません。もしかするとMDMAを飲んだ時の感情が「好き」なのかもしれないし、「セックスしたい」が「好き」なのかもしれませんが、統一的な意味が登場することは、恐らく今週いっぱいはなさそうです。
結局は自分で「好き」を定義するのが丸そうです。この記事では出来る限り、採用できそうな「好き」の定義を集めたつもりです、皆さんも自分なりに定義してください。自由に定義していいんですよ、なんせ正解なんてないですからね。ほら、ぴゅー。綺麗に定義できたでしょう?バンダイキブラウンを塗っていきましょうね。
うーん、個人的には「相手を無条件で承認したいと思う」のが好きってことにしときましょうか。ちんこがついているので、「勃起したら」でもいいんですが、それだとあまり風情がなさそうなので。
あと僕は彼女が大好きです、世界で一番かわいいと思ってます。
それじゃあ、皆さん読んでくれてありがとうございます、また次の記事でお会いしましょう、またのーぅいや!
社会で宇宙人なんてあだ名でも
宇宙の待ち合わせ室で
メイビーまた巡り会えるよね
愛してくれるかなと
狂ったりしてみると
みんなが避ける中でぱちくり見ているあなたがいたから
テレパシる気持ちが
電波が違くても
きっとね何か掴んでくれてる
あなたのことが好き
受信してくれるのかなと
心配もしてるんです
なんだかんだで側にいてくれてる あなたが好き
そんなあなたの事が好き
そんなあなたの事が好きなんです
あなたの事が好き
そんなあなたの事が好きです
きっとあなたしか受信できないの
(エリオをかまってちゃん『Os-宇宙人』)
[文献]
- 池田謙一, 唐沢穣, 工藤恵理子, 村本由紀子, 2010, 『社会心理学 ―― Social Psychology: Active Social Animals in Multilayered Constraints』 有斐閣.
- 青山正明, 2001, 『危ない薬 ―― 愛蔵版』 データハウス.
- 小日向るり子, 2017, 「好きって何? 本当に好きな人を見極める方法7つ【専門家監修】」, マイナビウーマン, (2018年2月7日アクセス, https://woman.mynavi.jp/article/170423-10/2/).
- 千田有紀, 中西祐子, 青山薫, 2013, 『ジェンダー論をつかむ』 有斐閣.
- 月浦崇, Roberto Cabeza, 2011, "Shared brain activity for aesthetic and moral judgments: implications for the Beauty-is-Good stereotype," Social Cognitive and Affective Neuroscience, 6(1), 138-48.
- 野村理朗, 2013, 「情動」, 脳科学辞典, (2018年2月7日アクセス, https://bsd.neuroinf.jp/wiki/%E6%83%85%E5%8B%95).
- Philip K., Dick, 1968, "Do Androids Dream of Electric Sheep?," Scott Meredith Literary Agency. (=浅倉久志訳, 1977, 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』, 早川書房.)
- Sternberg, Robert J., 1997, "Construct validation of a triangular love scale," European Journal of Social Psychology, 27(3), 313-335.
- Zygmunt, Bauman and Tim, May, 2001, "Thinking Sociologically," John Wiley & Sons. (=奥井智之訳, 2016, 『社会学の考え方[第二版]』, 筑摩書房.)