意味論的社会学的ソキウス・ディレクティオーネ

L ( 転轍 \lor \lnot 転轍 ) \supset M( 良き倫理 )

都市の工学化は罪悪感を隠匿する

※本記事は@oz4point5が授業用に執筆したレポートの修正版です(評価が終了したようなので記事として公開します)

※CC-BY-SA 3.0とします(画像を除く)

※pdf版は以下からダウンロードできます

都市の工学化は罪悪感を隠匿する.pdf - Google ドライブ

f:id:oz4point5:20180218144341j:plain

1. はじめに――ローマ人の物語

 イートインスペースを設けるコンビニエンスストアが増えているという。だが、新しいものには反発がつきもので、反対意見も多く見られる。インターネット上に「イートインスペースに座っている中年男性たち」の写真をアップロードして「オッサンたちにイートインが占領されている」とコメントを付けている人がいて、それに好意的なレスポンスがついていた。私は、それを見て胸を締め付けられる気持ちになった。彼らは、中年男性たちは、決して何かルールに違反した行為をしているわけではない、ただ座って購入した商品を食べて、友人と会話しているだけだ。それなのに何故「占領」と形容されなければならないのか。私はユリウス・カエサルの次の言葉を思い出す。

人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない(塩野 2001 : 76)

 技術の進歩に伴い、また「環境」に対する議論の成熟に伴い、都市はより機能的に、そして美しくなっていく。しかし、その裏で、確実に「排除され続けている」、実際には「見えないところに追いやられている」ものが存在する。なぜ人々はこの状況を求め、作り出し、快適に感じるのか。競争原理自体の性質に、工学化する都市の快適さの理由を見る。

2. 剥奪した罪悪感

 日本経済を表す代表的な単語として一億総中流社会というものがある、2018年においてもこの概念が日本社会に適用できるか、というのは統計的に確認する必要があるにせよ、現実として――その規模が他の国と比べて大きいか小さいかは別にせよ――賃金に格差は存在する。これは日本が資本主義社会であり、市場と競争の原理に(少なくとも名目上は)基づいている以上、仕方のない事と言える。

 資本主義における競争の問題点は、多くの社会学者が指摘しているが、その中の特徴的なものとして、格差、そしてその原因の帰属の誤謬がある。

遅かれ早かれ、勝者と敗者が「恒久的」な範疇として固定化する。勝者は、敗者の失敗を敗者が元々劣っていることのせいにする。(中略)そもそも、そこでの事態の原因は競争にあるが、敗者は、競争に勝ち抜くのに必要とみなされる資質そのものを欠いているとされる。そう規定される場合、敗者は不平を申し立てる正当性を否定される。貧者は、怠惰・無精・怠慢な存在として、つまりは剥奪された deprived 存在ではなく、堕落した depraved 存在として辱められる(Bauman and May 2001 = 2016 : 155)

 この事態は、程度の差はあれ、日本でも起こっている事と考えられる。新自由主義を信奉する活動家たちが、生活保護を受給している人々を「自己責任」として非難する構図は容易に想像が可能だ。

 しかしながら、私は、これには副作用が存在するように思われる。敗者から正当性を剥奪した勝者は、どこかでその後ろめたさを感じているのではないだろうか。もちろん、それがどこまで意識的なものかは分からないが、少なくともそういう気持ちがあるからこそ、日本は夜警国家に陥っていないし、駅前の募金活動に人々は協力するのだ。

3. 都市の工学化

 さて、都市は工学化する。「工学化」というのは批評家の東浩紀が対談で都市に対して用いた言葉で、そこには技術の進歩に伴って「政治的な意図が介在せずに」都市が機能主義的になっているさまが表現されている。

最近僕が思うのは、こういうことなんです。つまり、もし弱者を救いたいのであれば、弱者のことなんて考えたくない連中がこの世界にあまりにも多いということを前提として、弱者を救うことを考えなきゃいけない。(中略)セキュリティゲートで住宅を守り、カメラで町中を監視するなんて気持ち悪い、という言いかたはインテリのあいだでは通ります。でも実際に、世の中ではそういう需要が極めて高く、そういう欲望を抱えたひとたちが町をつくり、そういう光景が広がっている。その事実は別に「保守化」でもなんでもない。僕はそれはむしろ「工学化」と呼ぶべき現象だと思うわけです(東 2007 : 404-5)

 東はここで具体例として下北沢の町をあげ、その再開発がイデオロギーによるものでなく技術的な要請なものである、と続けている。東がこれを記してから、10年以上の時が経つが、今でもほとんど状況は変わっていないだろう。再開発に伴って古い建物は壊され続けているし、空き地や昔ながらの公園は綺麗なタイルとモニュメントが象徴するコミュニティスペースになるし、電子マネーにより自動で会計が可能な商店が増えている、というニュースは記憶に新しい。

 東はそれらが何者かの政治的な意図を主目的に行われているわけではないとだけしているが、私はそこに先に述べた「剥奪に対する罪悪感」が無意識的に影響しているのではないかと考える。古かったり、あるいは貧しかったりするものを目にするのは、剥奪した者にとっては自らの罪を再認識させられるため、それを見えないよう、新しく綺麗な町へと作り変えるのだ。

4. 隠匿される烙印

 この罪悪感の存在は、1960年代に既にRiesmanにより取り上げられている。ただし、それはもちろん今進んでいる「都市の工学化」ではなく、その前段階にあり、今や常識となった存在、自動販売機についてだ。彼は販売員が「オートメ化」する裏にある心情をこう分析している。

他人たちがはげしい不快な労働に従事しているのに、自分が比較的安楽な生活をしていることから、われわれの多くは一種の罪の感覚を持つ。その罪の感覚はおそらく、こんにちの他人指向型の社会できわめて広い拡がりを持っているものだ。(中略)復員軍人奨学金制度という法律のもとに多くの復員した青年たちが大学で勉強したり、動き回ったりしているがかれらは自分がはげしい仕事に従事していたのだという自信があるからこそ、奨学金を支給されてなおかつ、罪の意識を感じないですんでいるのである(Riesman 1961 = 1964 : 255)

 彼は、肉体労働と頭脳労働の差に起因する罪の感覚について述べているが、労働が複雑化した現代においてその二分論を用いるのはいささか無理があろう。しかしながら、この「罪の感覚」は先に述べた「弱者を剥奪した罪悪感」にすり替わり存在し続けているのではないか、と私は考える。

 自動的に電子マネーが会計が精算されるシステムは、彼の議論をそのまま適用できるだろうし、高架下の空きスペースにオブジェを置くことでホームレスを追い出そうとしたりすることや、コンビニのイートインスペースで食事する肉体労働従事者の中年男性を見ようとしないのも(何らかの規定を設けて追い出そうとするのも)この「罪悪感」を認識したくないがゆえの顛末のように思える。

5. おわりに

 技術の発展により都市は発展してゆき、社会的に「綺麗な」町へ作り変わっていくが、その裏でもともとあった貧者的なものは見えないようにされていく。その裏には、資本主義における競争原理に伴う「剥奪」に対する罪悪感があり、それを隠匿しようという無意識が存在しているのだと考えられる。

 私は数年に一度、必ず大阪の西成区に行くのだが、先日行った時に、線路沿いの道がすっかり自転車の駐輪スペースとして作り変えられているのに驚いた。そこにはかつて、西成の労働者たちが座って喋っていたり、露店で格安の衣服などを売る光景が存在していたが、彼らはどこかに追いやられ見えなくなってしまった。確かに、そのような光景は「美しい」ものではないのかもしれない、だが作り変えて追い出してを続けていたら、どこかで大きなしっぺ返しを社会は受けることになるのではないか、と私はそう思えてならない。

[文献]