意味論的社会学的ソキウス・ディレクティオーネ

L ( 転轍 \lor \lnot 転轍 ) \supset M( 良き倫理 )

みんなちがって、みんないい。

f:id:oz4point5:20180220082215p:plain

1. はじめに

 ブログであるし、自分が書きたいと思った文章を、とりとめもなく書くことにもした。タグ機能のお陰で、そのせいで他の記事が埋もれるということもあるまいし、自分が昔書いた文章を発掘して読んだ時の悦びはひとしおのように予想できるからだ。よって、これは2018年2月20日の日記であり、それ以外のなにでもない。

2. みんなちがって、みんないい。

「わたしと小鳥とすずと」

わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

(金子 1984

 いわずとしれた、金子みすゞの詩である。この文章を書くにおいて久しぶりに読んだが、確かに素晴らしい文章である。ただこれは、一つ大きな誤謬を含んでいて、まるで「何かが得意でなければ」「いい」存在ではない、という教訓や、そもそも「他者と何において優れているかを比べる」ことが認められている点で、完璧とはいえない。

 あらゆる人間(主義によって、これはどこまでも拡張したり縮小したりできるだろうが)が素晴らしいのは、これはただ「そうである」からという一点のみであるべきだろう。そして、詩なんてものはそれを再確認させてくれるものであるべきではないか。

3. 効用としての「みんちが」

 みんなちがって、みんないい、という考えを以下「みんちが」とする。これは金子みすゞがどう思っていたかに関わらず、先の誤謬を取り除いた、それはそれゆえに素晴らしい、という流儀のもとの「みんちが」とする。

 この考え方はまず大きくわけて二つの効用をもたらす。一つ目は「他者を尊重するようになる」ことである。フランスの哲学者、Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoirは、ある人物を特定の階級、国家、何らかの集団メンバーとして扱うのではなく、それ自体一個の人格をもつ個人として扱うことによって初めて集団に道徳が産まれるとしている。(Bauman and May 2001 : 164)

 これは「みんちが」の精神性のそれと合致する。人が「それぞれ」良いとすることは、その理由もそれぞれであり、「日本人だから」とか「足が早い」「頭が良い」とかそのようなカテゴリックなものであってはならない。

 もう一つの効用は「自己を尊重するようになる」ことである。自尊心 self-esteemの重要性はいわずもがなであるが、再確認しておくべきかもしれない。

 私が他者に欲望されること、それは私が欲望されるだけの価値ある存在であること、私の存在価値が承認されることを意味している、そうコジェーブは言っている。人間は動物と異なり、自己価値のためには生命の危険をも顧みない面があり、誇りのために死を賭して行動したり、自尊心を傷つけられて自殺する場合もある。なぜなら、自己価値が承認されることは、ただ単に生きることを超えた、「生きる意味」を与えてくれるからだ。もし自分の存在価値が認められなければ、私たちは「生きる意味」を見失い、逃れがたい虚無感と抑うつ感に襲われてしまうだろう。(山竹 2011)

 人間においては――これは主にラカン派の主張ではあるが――もはや自尊心=承認=存在価値=生きる意味とまで言えるのである。「みんちが」を宗教的なドグマとさえ自分の中で昇華できれば、自分自身が生きる意味を問うことはもはやない。

4. キレイゴトの「みんちが」

 だが、そう上手く事は運ばない。金子みすゞの詩なんてものを真面目に信じていいのは小学生までなのである。我々はうまく建前と本音の世界で自らのペルソナを被り社会を生き抜いていかねばならない。

 これは、制度的に仕方の無いことである。Karl Emil Maximilian Weberは、近代社会の最も顕著な特徴として、家計と経営の分離を分けた(Bauman and May 2001 : 156)。社会、あるいは企業や役所、それの教育機関の集合体は、経営を目的として官僚制 bureaucracy を採用する。これは、書類と判子によって全てが進み、あらゆる人間は何らかの「規則をもった」試験によって分類されていき、利益の最大化を目的とすることを意味する。そこにはもはや人間は人間個人ではなく、あるメモリにあてられる標本でしかない。そこで高い数値を叩き出せば「価値ある」人間だとされる。

 教育とは社会にでるための前準備であるから(少なくとも国民国家においては)、小学校や中学校でも容赦なくそれは叩き込まれる。プリントによって重要事項の伝達は行われ、生徒たちは何らかの序列で整列させられる。絶対的な支配者である教師によりその成績のいかんで「良い」生徒と「悪い」生徒へと振り分けられる(これは教育への批判ではない、現在の教育はその存在根拠ゆえにこれを逸脱することは不可能である)。

 結果として、我々は物心つく前に、「良さ」とは何らかの物差しでもって測るものであるという、大きな誤謬を心身に刻まれてしまう。受験勉強なんかするような人々ならなおさらだ。心の奥深くまで染み付いたそれは、いくら否定しようともなかなか消えるものではなく、そこに「みんちが」の難しさがある。

 だが解決法がある。Weberの分類によって利益追求を目的としない道徳的規範が生存するほうがある。家計だ。家族のあたたかな愛、「血筋による承認」をもって上記の問題は解決する。「血筋による承認」というのはいささか貴族的ではあるが、それはある種の特別制を持ちながら決して自分の中から消えることのない非常に安定性の高い承認である。これは自尊心の向上に大きく役立つ。

 しかしながら、家族の役割は矮小化しつつあるし、誰もが誰も幸せな家族を持っているわけではない。その場合にどうすればいいのか。

5. 疑似承認団体

 承認の不足は、根源的に、承認によってしか解決しない。承認を与えてもらえなければならない。特に「みんちが」を深呼吸できていない人は、人々をグルーピングして物事を考えるので、承認を受ける時に「自分を含めた小さい範囲」に承認をあたえてもらいたがる。それの最上が「恋愛」である。しかし、これは安定性にかける。

 インターネット上でのゆるいつながりは、ゆるい承認を得るのには向いているが、時としてそれは空虚であり「承認」への更なる飢えを呼び起こす結果となる。

6. 無理じゃね

 これ無理じゃね?

7. 無数の小さな物語

 そこら辺突き詰めると、やはり無数の小さな団体を作るのがよいような気がする。大きすぎると紐帯が弱くなり、承認の意味がなくなってしまう。だが、小さいと救える人々が少なくなる。そこは数で補わねばならない。サークルなんかはこれの例にとてもあっているような気はする。問題は数が少ないことで、こればかりは増やしまくらねばしょうがあるまい。

 というより、こういう団体のことを友達関係と言ったりするのだが、これが致命的に自発的構築が難しい。友達はつくるより、どちらかというとなるものなので……。

 現代は承認によって救済される。そしてその承認は、無数の小さな物語を要求する。無数にあるものを作り出すのは、いつも変わらず何らかのアーキテクチャにほかならない(こう考えるとmixiのコミュニティとかもそうだったのか?)。新時代のアーキテクチャが求められている。人間は60億ひとまとめにされて生きていけるほど、個人はまったく強くない。

 

承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

承認をめぐる病 (ちくま文庫 さ 29-8)

 

 

[文献]

  • Zygmunt, Bauman and Tim, May, 2001, "Thinking Sociologicaly," John Wiley & Sons. (=奥井智之『社会学の考え方〔第二版〕』 筑摩書房.)
  • 金子みすゞ,1984,『わたしと小鳥とすずと――金子みすゞ童謡集』 JULA出版局.
  • 山竹伸二, 2011, 『「認められたい」の正体――承認不安の時代』講談社.